お出かけ手帳

誤字脱字病。書いては直す人生。

『ドンジュ』 世界と私 ①

☆映画の内容に触れています☆

 

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昨年12月4日に立教大学で行われたシンポジウムで、映画『ドンジュ』を見てきました。しかも、脚本を書かれたシン・ヨンシクさん、映画評論家のチョン・チャンイルさん、そしてサプライズゲストとして劇中では日本人特高警察役を演じたキム・イヌさんまで登場してのパネルディスカッション付き。あんなに豪華でよかったのかしら。学生さんたちの発表とか、詩の朗読とか、歌手の方のミニコンサートとか色々ありまして。大充実のイベントでした。

もうだいぶ時間が経ってしまった&殴り書きのメモが頼りのエントリですが、2回に分けてつらづら書きたいと思います。普段ぽやっと生きている日本人の私が不用意に書いていいのか迷いましたが、やっぱり書くことにします。『ドンジュ』は実在のモデルや史実に基づきつつ、創作部分もあるので、あくまで映画『ドンジュ』についてのエントリです。

 

 

さて。

タイトルでもある『ドンジュ』は、韓国の国民的詩人ユン・ドンジュのこと。詩を愛し、朝鮮語で詩を書き続けた彼は、第二次世界大戦の最中に日本に留学しますが(この留学先のひとつが立教大学でした)、治安維持法の嫌疑にかかり27歳のという若さで獄死させられた人物です。詩集を出すことを夢見ながらも、存命中は無名の学生のまま。亡くなった後に詩集が出て、その存在が広く知られるようになりました。

映画『ドンジュ』はこのユン・ドンジュと、彼の同い年のいとこであり独立運動にまい進したソン・モンギュの半生を描いた物語。日本の植民地支配のなか、言葉も、名前も奪われた彼らは、世界をどう見ていたのか。どう生きたのか。

 

全編白黒。静かなタッチで粛々とお話は進むようで、最後までぐいぐい見せます。ユン・ドンジュは韓国では知らぬ人がいないほどの有名人であり、彼の最期も知られている。だからこそ、映画的に何をクライマックスとして置くかが大事なんだけれども、この設定が見事でした。

同じく構成で言うと、ドンジュ(そしてモンギュ)の描かれ方が、特高刑事から尋問を受ける「現在」と、生まれ育った村で過ごした10代から少しずつ時間が進む「過去」が、フラッシュバックの手法を使って行ったり来たりする。このバランスも絶妙です。現在と過去の距離がどんどん近づきながら、緊張感が増幅していく。

 

更に、ソン・モンギュをもう一人の主人公として置いたことも素晴らしかった。ドンジュとは正反対の人物で、ドンジュとモンギュの生き方、選択が対照的であればあるほど、お互いを輝かせるし、物語のテーマを深めさせるし、観客により多くのものを突き付ける。

 

 

ドンジュとモンギュ

カン・ハヌル演じるドンジュという人は朴訥としていて、不器用で、でもとかく詩が大好きで、詩の力を信じてる。そういう若者として描かれています。詩を書きたい。書かずにはいられない。詩人になりたい。そんな情熱を内に秘めながら、静かに生きている。敬虔なキリスト教徒でもあります。「世界は変わっても、信じるものは変わらない」人。

一方、パク・ジョンミン演じるモンギュは、華があって活動的な人物。頭がものすごくよくて、器用で、なんでもできる人です。十代でも大人を感心させるような演説をパっとやったり。文才もあって、ちょっと文章を書けば、賞をとって新聞に載っちゃう。帝大にもさらっと受かる。ドンジュと同じ家で生まれ育ちますが、彼はあまり信心深くはありません。パワーがみなぎっていて、「世界が変わるなら、自分も変わらなくては」っていう人です。

 

この二人の関係性が、この映画の大きな見どころのひとつです。同じ歳で、同じ家で育ったいとこで、親友でもありながら、お互いをどこか羨んでいる。でもやっぱり一番の理解者っていう。 

 

モンギュがね、また本当に輝いていてね。カリスマあふれる青年です。ちょっとした自分勝手さすら、魅力的に見えてしまう。実際、独立運動のリーダーになっていきますし。

ドンジュはそんなモンギュに対して気後れしてるところがあります。追いかけようとしても、どうにも追いつかない。

 

ただやっぱりね、ドンジュはすごい人なんですよ。私が言うまでもないことですが。何より、彼の書いた詩ですよね。自分を真っすぐ見つめた、ものすごく純度の高い詩を書いている。心とはなんだろう。私とはなんだろう。どう生きるべきなんだろう。自然や身近にあるものをモチーフに、やさしい言葉でつづられています。詩のことはよくわからないけど、今読んでもぐっとくる。

しかも、そういう詩を戦争で世の中が滅茶苦茶な時に書いていた。個が無視される時代に、自分の心をじっと見つめ続けたのです。奪われた自分の国の言葉で。

 

モンギュもその凄さがわかってるから、一歩引いているドンジュを下に見ることはない。むしろ不器用で才能ある詩人としてのドンジュを守ろうとします。なんだかんだで、ドンジュには自分のやっている政治活動と距離を置かせる。ドンジュはそれで疎外感を感じて、また傷つくんですけれど。

 

モンギュが詩人としてのドンジュを守ろうとするのは、モンギュにとってドンジュが帰る場所だし、ドンジュにとっては詩が帰る場所だったからじゃないかな、と映画を見ながら思いました。ドンジュが詩人でなくなったら、帰る場所がなくなってしまうから、きっとモンギュはドンジュには変ってほしくないんですね。モンギュは困ったことになると、必ずドンジュのところに戻ってくるし(モンギュのこういうところが、人間臭くてすごくいい人物造形だと思う)。

ドンジュが「自分は詩集をまだ出版していないので…」と謙遜するシーンが度々あるんだけれど、モンギュはいつもドンジュを詩人として見ています。

 

ドンジュが変わらないからこそモンギュは思い切って変われたし、モンギュが変わっていくからこそドンジュは変らずにいられたのかな。お互いの存在があるからこそ、二人は自分の道で徹底的に戦おうとしたのかもしれません。

 

 

価値のせめぎ合い

この映画はすごく情報量が多くて、色んな角度から見ることのできる物語になっているのですが、「価値観のせめぎあい」っていうのが大きいテーマとしてあると思います。物語で価値のせめぎ合いは必ず描かれるんだけれど、逆を言うと、実在の人物のお話でも、しっかり物語として作り上げている。

 

戦中であり植民地支配っていう暴力的な価値の押し付けが根底に強くありますが、同じ国の中でも、家族同士でも、相手が親友でさえも、価値観がせめぎ合う様子が劇中では描かれています。誰もが一個人としての立場を持っているわけですから、考え方の違いがあるのは当然なんですよね。「私」は誰とも共有できない。

同じ環境で育ち、心の深いところで誰よりも信頼しあう関係であっても、ドンジュとモンギュは時々ぶつかるし、世界に対し全く違う態度をとっています。当たり前なんだけど、それ程までに私たちはみな違うのです。

 

前半の方に、いつもは大人しいドンジュがモンギュと詩をめぐって激しく議論するシーンがあるんですけれど、これなんてまさに価値観が大きくぶつかる瞬間でした。

 

二人はソウルに上京し、同じ学校に進学します(日本に留学するのはそのあと)。

入学するとモンギュは「文芸雑誌つくろうぜ」って言って友人を誘い、ドンジュも掲載するための詩を書く(ちなみに地元でも二人は雑誌を作っていました)。

だけど、モンギュはその編集作業をしていくなかで「ドンジュ以外の詩はそんなに載せなくていい」って言いだすんですね。「詩を軽視してる訳じゃないけど、今大事なのはあくまで世界を変えるための政治的な文章だ」って。モンギュが雑誌を作る目的は、自らの政治的メッセージを発信するメディアが欲しいから。文学のためじゃないのです。モンギュの行動にはいつも目的が明確にある。

それで、いつもは穏やかなドンジュが怒ります。詩を何よりも大切に思ってる人ですから。

 ドンジュ:「お前も詩が好きだったじゃないか。文学にだって人の想いを表す力があるし、力が集まれば世界だって変えられる」

モンギュ:「どうやってその力を集めるんだよ。そんなの世界を変える勇気がないから文学の陰に隠れているだけだ」

ドンジュ:「文学を手段のひとつとしか見てないから、そんなことが言えるんだ。文学や芸術を政治的に利用しても、世界は変えられない。愛国主義民族主義共産主義…思想を売るなんて、時代の流れに乗った慣習そのものじゃないか」

 

会話の内容は大意なので、厳密じゃないんですが(すみません汗。是非映画見てください!)、とにかく「お前のやり方では世界は変えられない」って批判し合う。「世界を変えたい」という想いは同じなのに、アプローチがまるで違うのです。

 

で、その場はものすごい重い空気になるんだけれども、そこで一緒に雑誌を作ってる同級生が「いやぁ、お前たち両方正しいよ」みたいに、なんとか和ませようと、努めて軽い感じで仲裁するんですね。この同級生を演じているミン・ジヌンさんが、またいいんですけれども。それで、モンギュも「わかった、わかったよ、ドンジュ」って折れます(モンギュが先に折れたのは、やっぱりドンジュの詩が、そして詩を愛するドンジュが好きだったからだと思いますね。なんだかんだで、ドンジュの詩だけは掲載しようとしてたわけだし)。

雑誌作りはヨジンっていう女学生も参加していて、彼女も「ドンジュが詩を愛するように、モンギュは世界を愛してるだけなのよ」ってドンジュをなだめる。

 

この友達ふたりが「あなたたちの言っていることは、両方わかるよ。両方正しいよ」って言ったのって、さりげないんだけどすごく大事で。たとえ正反対の意見であろうと、耳をしっかり傾ければ、それぞれの意図を両方とも理解することができるということなんですよね。それで何か根本的に解決するわけではないかもしれないけれど、価値観のせめぎあいから起こる争いを止めているのは確かなのです。

話をしっかり聞くこと、また理解されたと感じることがいかに大切か。

 

ここでの議論は物語の根幹にかかわる重要なシーンなのですが、一方でなぜ一触即発寸前から和やかムードの流れで収まるかっていうと、やっぱり友達だからですよね。心が知れた仲間だからぶつかっても、仲裁が入るし、仲直りもできる。

 

じゃあ友達でも仲間でもない、敵対する人間とはどこまで対話することができるのだろう、真摯に聞くことができるのだろうっていう問いが出てくるわけで。仲裁する第三者もなく、相手が圧倒的に人を傷つけるような価値観を持っていたら?

もちろん、この映画はそこまでやります。

そこで大きな役割を果たすのが、特にドンジュと長い時間対峙することになる日本人の特高刑事です。

 

 つづきます。

 

尹東柱詩集 空と風と星と詩 (岩波文庫)

尹東柱詩集 空と風と星と詩 (岩波文庫)

 

劇中、ユン・ドンジュの詩が何篇もナレーションで挿入されるんですが、その度に「このタイミングでこの詩が出てくるのか!」と唸りました。本当にどこまでも脚本がうまい。

そして言うまでもなく、詩がいい。とてもいい。「私」は誰とも共有できないけれど、書き手の魂の一部に触れ、共鳴できるのが詩や文学の凄いところですね。孤独な瞬間がなければきっと詩も文学も生まれないんだけど、そうして生まれた詩や文学があるから人は孤独から救われるのだよなぁ。

映画でもドンジュの詩に共鳴し、奔走する人物が出てきます。

 

<追記 :『ドンジュ』は『空と風と星の詩人~ 尹東柱の生涯~』という邦題で、2017年初夏劇場公開予定だそうです。次エントリは映画の展開にかなり触れてますので、ご注意くださいね。映画を楽しみにされてる方は、劇場でぜひ。私も楽しみにしております。>