お出かけ手帳

誤字脱字病。書いては直す人生。

『ドンジュ』 世界と私 ②

☆注意!映画の内容にかなり触れています!☆

 

 

つづきです。

昨年12月4日に立教大学のイベントで見た映画『ドンジュ』の感想と、上演後のパネルディスカッションの様子など。登壇ゲストは、脚本を書かれたシン・ヨンシクさん、映画評論家のチョン・チャンイルさん、劇中で日本人特高役を演じた俳優キム・イヌさん。

 

あ、あと今更ですが(汗)、イ・ジュニク監督作品です!

 

第3の男と尋問

 映画『ドンジュ』は、福岡刑務所の取調室からいきなり始まります。口調は静かながらも絶望的に話の通じなそうな特高と、囚人服を着てやつれた様子のドンジュが登場し、「どうやらこの二人は初対面なんだな」っていう雰囲気。尋問の始まりが、物語の始まりです。

 

この冒頭が工夫されているのは、ごくごく短いシーンなのにも関わらずドンジュのプロフィールをあっという間に説明してしまうところ。名前、出身地、在籍校から、軍事活動に加担していたという疑いがかかっているいうこと(そしてドンジュにはその心当たりがないこと)、ソン・モンギュと関わりがあること、既に反逆罪で2年の刑が下されていること等々、「特高が尋問する」という形で情報がぱっとまとめて提示される。

 

ユン・ドンジュは有名人だけれども、実在の人物であるからこそ「この映画におけるドンジュ」の前提をさっと見せています。また、ドンジュのことを知らない人も最低限の知識をおさえることができる。

このいかにも善良そうな青年は何故逮捕されてしまったのか。深い関係にあるらしいモンギュとは、どんな人物なのか(モンギュは韓国でも無名の存在だったそうなのです。この映画でそれも変わったでしょうね)。特高の問いかけと共に、誰もが最初から一気に引き込まれる作りになっています。

 

この冒頭から登場する特高刑事を演じているのが、イベントのサプライズゲストであったキム・イヌさんです。

パネリストのひとり、映画評論家のチョン・チャンイルさんがこの特高役について、「第3の主人公。名前すらないが、主演クラス。悪役でありながら、残忍ではない」と評されていたんですが、本当にそうだと思いました。お話を進行させる上でも、テーマの核心部に迫っていく上でも、大きな役割を果たしています。尋問という形で物語を引っ張りつつ(狂言回し的存在と言えると思う)、投獄されたドンジュとモンギュと深く関わる人物。

 

特高刑事はドンジュやモンギュを理不尽に責め続ける敵対者です。「風紀を乱すものは許さんし、貴様はまさにそういう輩だ!」と激しく決めつけます。

ただ、どこか理知的で潔癖な面を持ったキャラでもあるんですね。めちゃくちゃに殴るとか、やみくもに怒鳴りつけるとか、そういうタイプではない。淡々と嫌な感じなのです。

尋問中、ドンジュが勢いあまって机の上のお茶(?)をこぼすシーンがあるんだけど、特高は机は部下のハンカチで、汚れた手は自分のハンカチで拭いてたりする。さり気ないんだけど、こういう演出の端々でこの人の不気味な潔癖感、いやらしさが出ていました。

 

そんな風に特高は基本的には淡々としているんだけれども、一方で時々激しく感情を見せる。「アジアがひとつにならないと、西洋にやられてしまう。西洋に勝ってアジアを解放せねば!」「絶対に勝てる戦争なのに、貴様のような奴らがそれを邪魔している!」。

大義を信じつつも、西洋を意識して結構焦っているんですよ、この人は。彼はある種の思いつめた真面目さを持っていて、その真面目さがとても怖ろしく、時々哀れにすら見える。

 

脚本のシンさんは「ドンジュとこの特高のやりとりが、当時の日韓関係を表している」「尋問は、日本人の意識や価値観、ドンジュやモンギュが持っていた価値観を見せるための装置である」と、おっしゃってました。「フラッシュバックの手法を使いたかった」とも。そして、それらは見事に機能しています。

 

じつは実際には当時、刑が決まった後に刑務所で取り調べを受けることはなかったそうなんですね。それを知っていながら、あえて尋問シーンを創作し、「名前のない特高」という架空の人物を置いた。尋問と特高は、皮肉にも、ドンジュやモンギュの人生を限られた時間で凝縮して知るための仕掛けなのです。特高による尋問自体は、当時横行していたわけですが。

 

そして更に感じ入ったのは、装置の一部であり、ある意味物語を動かすために登場したはずの特高に、その役割を放棄させる瞬間を与えていること。特高を物語の駒で終わらせない。だからこそ、彼は第三の主役と言えるのです。

 

世界のなかの私

前述したように、映画冒頭でドンジュの裁判は終わり既に刑期が決まっていることが説明されます。つまり、この尋問は処罰を決めるためのものではありません。創作してまで特高に尋問をさせているわけですが、じゃあこの尋問はどこに向かっていくのか。

 

この尋問の目的は、ドンジュやモンギュある選択をさせることにあります。

それは、裁判で決まった罪を認めるか、認めないか。

 

罪といっても、正当な裁判があったわけではないし、その罪は罪なのか、モンギュやドンジュが世界を変えたがってるのは何故なのか、っていうことを考えると日本が圧政しているからでしかない。だけど、特高(というか軍部)は名分がほしいのです。「我々は文明国として合法的に手続きをふんでいる」「我々は間違っていない」ということを国際社会にアピールするために、自分たちの都合で連れてきたドンジュやモンギュに対し、裁判の内容が描かれた書類に「自主的に署名をする」ことを迫ります。署名さえあれば、本人は罪を認めたことになり、何の違法性もないのだ、と。

 

モンギュは独立運動の道半ばで捕まってしまうんだけれども(しかも、徴収令を利用して日本軍の内部に入るという、かなり本格的な計画だった)、ドンジュは治安維持法に触れたといっても朝鮮語で詩を書いていただけ(しかし、当時それは相当に危険なことだった)。映画を見ていると、ドンジュはモンギュに巻き込まれて逮捕されたように見える。

 

ドンジュはモンギュと同じ罪に問われます。在日朝鮮人学生で組織化し、軍事的に謀反を起こそうとしていた、という罪に。

政治運動に心血を注ぎながらを目的を果たせなかったモンギュと、政治的には何も関与していないドンジュ。彼らは罪を認めるのか。署名をするのか。

 

しかも、ドンジュとモンギュは収監されている上に、訳の分からない注射を定期的に打たれていて、かなり命が脅かされている状態です。尋問シーンは創作ですが、注射に関しては、実際の証言に基づいています。署名をしても、しなくても、このあと自分の命がどうなるのかはわからない。

 

極限の中で、ドンジュとモンギュはそれぞれ答えを出すことを迫られるのですが(逮捕後、二人が会話を交わすことはない)、彼らは「世界のなかで自分はどう生きてきたのか」っていうことを問題にしていくんですね。相手がどうだ、っていうこと以上にその答えは自己に向かっていく。

もちろん、日本の軍事政策がなければドンジュもモンギュもこんなに苦しむことはなかった。それに、「自らの意思で」署名させようなんて、ひどすぎる。二人は日本のやり方の脆さを鋭く批判しています。

だけど、ドンジュもモンギュも最終的には自分自身に強く問うのです。この世界を変えたいと願ったけれど、自分は最善の道を選んできたのだろうか。

 

このドンジュとモンギュが署名をするか、しないか、っていうシーンは本当に凄まじくてですね。今でも忘れられないです。

ここに到るまでに、二人がどんな考えを持ち、どんな人と過ごし、どんな青春を送ったのか、っていうことを観客は見ているので、それぞれの選択がいかに苦しいことだったかがわかる。ドンジュもモンギュも、1番言いたくないことを言っている。

ただ、それでも二人が尊いのは、自分を正当化することをせず、厳しいほどにまっすぐ自分を見つめたこと。極限のなかでも、その厳しいまなざしを持ち続けたこと自体が、この二人の凄みなのです。

 

物語は、この山場の為にエピソードを積み重ねていたと言っても過言でありません。

例えば、ソウルでドンジュとモンギュは詩を巡って激しく議論しましたが、二人の主張はここでそれぞれ自分自身に強く跳ね返ってきている。

また、二人の選択の決め手となった自分自身に対する厳しいまなざしは、あるキーワードとなって、劇中で様々な登場人物から提示されています。聖人や英雄ではないけれど、かといって屈したかというとそれも違う。やっぱりこの人たちは、誰もが簡単には真似のできないほどの勇気ある決断をした。ドンジュやモンギュをそういう描きかたにしているのは、この言葉があったからこそです。

ドンジュの信心深さに触れながら、そっちに話を持っていかなかったのもすごい。

 

一方、ドンジュとモンギュの命を懸けた決断を受け止めるのが特高です。

 

「敵対する人間と対話することができるのか、真摯に話を聞くことができるのかっていう命題がこの映画にはある」、と前のエントリで書いたのですが、真にこの命題を背負ってるのは、特高なんですね。

特高にとってドンジュやモンギュの存在は秩序を乱す危険な存在でしかなく、最初は全く聞く耳を持たなかった。聞く価値さえないと思っていた。しかし、若い二人のまっすぐさ、真っ当さに特高は心を揺さぶられます。彼もまた自分自身に疑問を持つ。

 

特高はドンジュとモンギュと完全に敵対する場所にいながら、あのソウルの同級生さながらに、ドンジュとモンギュの主張に挟まれることになります。その主張は全く違うものですが根本は同じ。どちらも理解できるものだった。特高は何も言うことができません。「犯罪者」であるはずの若者二人に、そこまで追い詰められる。特高はその瞬間、自分の立場を忘れて、目の前の青年の話をじっと聞くのです。聞かずにはいられない。

 

特高刑事は漠然とした日本人を象徴する存在です。だから、彼には名前がないのでしょう。この映画にはドンジュを助ける日本人もいますが、彼らには名前があります。

だけど、最終的にドンジュとモンギュの心の叫びを聞くのは、この名前のない特高です。名前のない日本人だからこそ、この二人の気持ちを聞くべきなんだな、と感じました。この特高に名前があったら、それは個人のレベルで話が終わってしまう。

 

これはシンさんもキムさんもおっしゃってたんですが、「日本が悪いわけではなく、日本の軍国主義が悪い」と。この特高刑事についても「ある意味仕方なく尋問する立場にいる」というスタンスで演じたそうです。

クライマックスに関しては、監督ともかなり話し合ったそうで、「セリフが決まっていなかったので、上海で弟が死んだという裏設定をつくって、ドンジュやモンギュが弟に見えてきたつもりで演じた」というようなことを、キムさんはおっしゃってました。

 

この特高の真の不幸は、たとえドンジュやモンギュに耳を傾け共感したとしても、立場上、話を聞く以上のことがもはやできないということです。戦争がそれを許さない。本当は話を聴くことすら許されないでしょう。

特高が署名をしろと迫るのは、「しなかったら、もっと最悪なことになるかもしれない」っていう思いがあるとも取れるんですよね。「弟に見えた」くらいですから。

 

組織や権力が干渉することなく、また利害にも関係なく、個人が様々な相手と対話をすることができる社会であったらどんなにいいか。残念ですが、この世界は未だにそれを実現できずにいます。

 

今作れるものを、今の観客に

今回のイベントでは1時間以上に渡り色々と興味深いお話があったのですが、「この映画を通じて韓国や日本の観客に何を伝えたいか」という質問に対して、脚本のシンさんが非常に明確に答えているのが印象的でした。

 

「韓国にも日本にも多くの才能やビジョンを持った人がいるけれど、いい大学、いい会社に入るために必死に勉強せざるをえない。既成の世代が圧迫しているから、それに抵抗してほしい。両国の若者たちは既成の世代よりも素晴らしい社会を作れる。健全な社会を作ることができる。ドンジュやモンギュの生き方を見ることで、そのような決心をしてほしい」

 

前述した「日本でなく軍事主義が悪い」というのもそうですけれど、意図的に今の視点からドンジュたちを見て、あくまで今を生きる観客に向けて作られた映画なんですね。

シンさんは「『ドンジュ』は純粋な創作。ドキュメンタリーではない」「歴史の中の人物が今の人に何を語りかけられるか」「単純明快な事実以外はフィクション化してもいいのでは」っていうこともおっしゃってて、物語としての『ドンジュ』にこだわっているのだと感じました。

 

イベント会場には当時を生き抜いた方が鑑賞にいらしてて、「こういう映画が作られる時代になってよかった。特高はもっと怖かった。学校の先生も皆ほんとうに怖かった」っておっしゃってましたね。この感想はすごく重みがありました。この映画における特高は、あくまでメッセージを伝えるために作られたキャラクターなのです。

当時の尋問中にお茶は出たのか?とか、一介の特高がそこまで世界情勢を把握していただろうか、とか多少疑問もあったりもしたけど、フィクションに対して確固たる意識を持って作っているのならば、それはそれでいいのだろうな、と確かに思いました。

(追記:お茶はドンジュに出されたものじゃなく、特高のものですね。そりゃそうですよね。)

 

特高は架空のキャラですが、クミという日本人女学生も物語のために作られた人物です。クミは立教大でドンジュと出会い、「英訳版ならドンジュの詩集がだせるのではないか」と奔走します。

「ドンジュが恋愛をしていたかは分からない。恋愛していたと言いたいわけでもない。ドンジュは詩人になりたいとずっと思っていた人。彼の夢を理解し応援する存在が必要だった。歴史的な人物ではないが、それほどまでに彼は詩集を出したいと思っていた。タイトルに共感する日本人がいてもいい(注:劇中、クミはドンジュに詩集の表題を尋ねています)」(シンさん)

 

クミにあたる人物は実際は朝鮮の方だったそうです。日本人の設定に変えたのはかなり大きな決断だったと思うのですが、クミが日本人だからこそ見出すことができる希望もある。そして、これも今だからできる設定変更です。

 

一方、立教の先生として出てくる高松先生は実在の人物です。誰もが認める人格者であり、留学生など当時弱い立場に置かれた学生を助けていたそうです。劇中、ドンジュは特高に対して「高松先生は立派な方です」と言っています。

 

高松先生といえば、ドンジュが高松先生の家を訪ね、クミも交えて3人で食卓を囲むシーンがあります。そこで、この時代には違和感があるほど、きれいに炊けたご飯のカットがある。これにも実は大きな意味があります。

(追記:講演でのお話だと、実際の高松先生は戦中に飢餓で亡くなっているのだそうです。自分は食べずに、学生たちにお米をたべさせていたんですね。それほどまでに学生達に尽くされていた。だからお米のアップを入れたのだと思います。)

 

虚実混ぜながら「いい日本人」が描かれる一方で、日本が朝鮮の人に何をしたかということも、描かれています。もちろん、この映画で描ける範囲のことですが。

 

大きなところでは、言葉を奪い、名前を変えさせるっていう、人間の根幹を踏みにじることをしました。ただでさえ大問題なのに、ドンジュは朝鮮人としてだけでなく、詩人としての尊厳もおびやかされてしまう。劇中では創作を絶たれた詩人も出てきます。チョン・ジヨン先生っていうドンジュの憧れの詩人なのですが、もうこの人は打ちのめされながらも、ちょっと複雑な思いも抱えてて、昼間からお酒飲んじゃってね。この先生とドンジュとの会話もすごく大事でした。

 

そして生体実験です。ドンジュやモンギュをはじめ、投獄をされた多くの人々は、何だかわからないものを定期的に注射されていた。

「何かしらの注射は打っていた。中身を知っているのはアメリカだが、アメリカは教えない。最も考えられるのは人工血液としての海水だろう」(シンさん)と、イベントでもお話がありました。中身の資料を、今はアメリカが持っているということなんでしょうけれども…。

少なくとも証言で確実にわかっているのは、注射をしていたこと。たくさんの死者が出たこと。ドンジュが注射の影響を見るために簡単な足し算、引き算の問題を解かせられるシーンがあるのですが、これも証言をもとにしているそうです。

 

ドンジュは父親に文学を志すことを反対されるんだけど、その時に「文学を学ぶお金で医者になれる。医者はたくさんの命を救える」って言われてたんですよ。お父さんにはお父さんの劣等感があり、自分の代わりにドンジュに出世してほしいっていう気持ちがあったようなんですが、この反対の言葉自体は今でも理解できる理屈です。でも、刑務所にいた医者は、その逆のことをしてるっていう。医者の後ろには日本の軍事があるわけですが、もう本当にひどいことをしてるし、真っ当な理屈をも簡単にねじ伏せてしまうのが、戦争の心底恐ろしいところです。

 

詩人としてのドンジュ

ドンジュは劇中、詩を書くことに対し深く葛藤しますか、この映画はドンジュの「詩人になりたい」という気持ちを肯定します。あのラストシーンには、それがすごく表れていたんじゃないかと思うのです。

 

時間は巻き戻り、自身の詩の英訳を受け取ったドンジュは、クミに詩集のタイトルを伝えます。

あの瞬間に、きっとユン・ドンジュは詩人になった。彼はいつだってずっと詩を書いていたし、周りからすれば既に詩人ではあったけど、「まだ詩集を出していないから」と堂々と詩人だと名乗ることはしませんでした。それほど詩集を出すことを大事に思っていた。だからタイトルを人に伝えた時に、ドンジュは初めて「自分は本当に詩人なんだ」と実感できたのかもしれない。

その時のドンジュの表情は、緊張してるんですよね。誰かが近づいてきたからだけではない。それは彼が詩人として新たな責任を感じたから、とも取れます。

 

このあとドンジュは悲劇に襲われますが、詩人としての輝きはここから長く続いていきます。詩集が実際に出版されてから現在にいたるまで、韓国はもちろん、海外でもドンジュの詩は読まれている。それほどまでに、彼の詩は普遍的なものでした。

 

その人気に際して、ドンジュ本人が一切不在であり、そしてその人気を一番喜んだであろうモンギュもまた不在であった理由を、日本人はずっと心に留めなくてはならないと思います。当時、軍国主義が日本人を含んだ全ての個人を飲み込んでいたとしても、それは決してあってはならないことでした。

 

 

日本公開は今年の夏で決定なのかな?そして邦題タイトルは漢字で『東柱』なのかな?(追記:邦題は『空と風と星の詩人~ 尹東柱の生涯~』に決まったそうです。)

ともあれ、とてもいい映画なので、お勧めです。どんなに意味のあるテーマや素晴らしい人物を扱っていても、作りが悪ければ、それはやっぱり映画としてはダメだと思うのです。この映画はそこがきっちりしているからこそ、心について、生き方について、歴史について、見る者が自分で考えることができる。押し付けなく、そのきっかけを与えてくれる。

あと、真面目なところばかり書いたけど、ドンジュにもモンギュにも若者らしい楽しい時間があり、前半は結構笑ったりしてるんですね。青春映画でもある。事前知識がなくてもついて行ける内容になっているので、みんな見たらいいと思うな!あ、お芝居について何も書いてないけど、こんだけ考えさせられるってことは、つまりはみんな素晴らしいということです。人物の構図が意味深く(ドンジュとモンギュの立ち位置そのものが、二人の関係性がよく表していた)、食べ物の扱い全般もよかった(食べ物描写がきちんとできている、というのはいい映画の指標ですね)。白黒の色味もすごく綺麗です。

 

パネルディスカッションでは、本当に色んなお話があったんですけどもね。ドンジュとモンギュが生涯越境し続けなければならなかったこととか(これは日本の植民地支配のせいです)、ドンジュのお父さんのこととか(ドンジュとモンギュのお父さんがそれぞれまた対比になってて、沁みるのです)。映画作りに関するお金の話なんかもありましたね(あれは面白かった)。ただ、とんでもない字数になってきたので、いったんね、やめないとね。捨て情報が全くない中で感想もろもろを書くことの難しさよ。

 

あと、クライマックスに関わる超重要ワードは、ちょっと書くのを外してみました。ここまで書いといて、何なんだよって感じなんですが(爆)。

とはいえ、ドンジュさんの詩集を開けばすぐ出てくるし、彼の詩にしても、この映画にしても、その言葉は絶対に外せないので、特に隠しているとかもったいぶってる訳じゃないのです。ご存知の方も多いはず。こんな時代なので、調べればすぐわかるし、それを書いているのはよくない、とかでもないですもちろん。あくまで私の個人的な心情ということで。

イベントでも、このあたり関しては登壇のお三方からいいお話があったので、いつかまた機会があれば。パンフにそういう話が載るかもしれないですしね。(パンフ期待しています!)

 

この映画は価値の軋轢にどう向き合うかっていうお話だと私は思ってるんだけど、今の社会というのは価値がぶつかるだけでなく、それぞれが価値の中に閉じこもっている気がするのですよ。昔もそうなのかな。でも今すごくそう感じる。政治的なことだけでなく、文化的な面でも、例えばそれこそどんな映画が好きか、ということさえすごく閉じこもっている。作り手が「わかる人だけわかればいい」という映画は時にすごく面白いけれど、受け手までその世界にだけ浸って「私だけが、私たちだけがわかればいい」っていうのはちょっと寂しいな、と思ってしまうのです。これは自戒の意味も込めて書いていますが。

『ドンジュ』はすごく開かれた映画だし、異なる世界の人と通じていくことを大切にしているお話です。誰もが他者とぶつかりながら、もがきながら生きていていることを思い出させてくれます。だからこそ、どんな相手の話もまずは先入観を持たずに聞くべきだし、苦しい時こそ自分を厳しく見つめなくてはいけない。ドンジュやモンギュが問いかけるのは、「この世界であなたはちゃんと生きている?」ということなのです。

 

尹東柱詩集 空と風と星と詩 (岩波文庫)

尹東柱詩集 空と風と星と詩 (岩波文庫)

 

ドンジュは何度もタイトルを変えてから、『空と風と星と詩』に決めたそうです。

今年はドンジュさんとモンギュさんの生誕100周年ですよ!

 

言葉が通じてこそ、友達になれる

言葉が通じてこそ、友達になれる

 

 詩人・茨城のり子さんは日本に韓流ブームがくる何十年もまえから、韓国語を学んでいました。たまたま手にとった本でしたが、面白かった。ユン・ドンジュについても触れられています。

日本語を使うことを強制されたドンジュとモンギュ。そして朝鮮を含めたアジアの人々。「私も朝鮮語ができたらよかったのに」と言ったクミ。語学の天才と呼ばれるほど、敵国の言葉である英語ができた高松先生。

『ドンジュ』は母国語、外国語についてのお話でもあります。

ドンジュやモンギュが教えてくれる母国語の持つ力強さよ。その一方で、外国語は違う世界とつながるツールでもある。「言葉が通じてこそ、友達になれる」。本当に。