お出かけ手帳

誤字脱字病。書いては直す人生。

ぼんやり考えたことなど

☆なんだかんだで、前エントリに書いた映画についてのネタバレが入っています☆

 

えーと、ほとんど2か月悩んで、ひとつの映画の感想みたいなものを書いたのですが、そもそも、あらすじや感想をブログに書くかどうか、相当悩みました。

映画自体は物凄く開かれた内容だし、イベントも素晴らしかったんだけど、やっぱり気軽に感想を書けるかっていうと違います。特に、私は本当にぽやっと生きてる人間だし、不勉強だし。細々としたブログですが、それでもかなり気にかかりました。

しかも、日本公開がこれからなので、あんまり書きすぎると営業妨害になっちゃう。それは私としても、ものすごく不本意ですから。(と言いつつ、ものすごく書いてしまいました…すみませんすみません汗)。

 

でも気になるんですね。映画を見て以来、ご飯を食べてても、仕事してても、どこかずっと心にひっかかってる。

 

それはやっぱり、作り手の話を直接聞いた、っていうのが大きいです。映画上映だけだったら、ここまで色々と考えなかったし、感想も書かなかったと思います。だって脚本家と出演者と映画評論家が集まるって、最強の布陣じゃないですか。あの話を聞いたら、「人に伝えたい欲」は確実に刺激されると思う。本当に有難いイベントでした。映画でも描かれてますが、「直接話を聞く」ってとても影響力があることなんですね。

 

ただ、いざそれについて書くってなると本当に難しい。何を書くのが正解なのかわからなくなる。書けば書くほど迷宮に…。誰に頼まれたわけでもないし、じゃぁ止めればいいんだけど、それもできない。とにかく気になって仕方ない。何故かひとり追い詰められていました。だから自分のために書きました。これは書かないと、心が落ち着かないままだな、と。稚拙な文章だとはわかっているけど、どうしても書き終えなければいけなかった。

 

最終的には「戦後70年経っても、未だ色んな整理がついていないんだから、私ごときが答えをだせるわけないよね。でも、そういう人が足りないながらも必死に考えることが大事だよねっ」って勝手に自分を鼓舞したりしてね。

それでもあまりにエンドレスに書き直しが続くので、 「出来が悪かろうと、もうどっかで区切りつけないと永遠に書き終わんないぞコレ」と思い、強制的に記事を上げました。2回に分けたのも半分出せば、残りも無理やりにでも上げるしかないから。だから、後半とかは特に、ちょっとしりつぼみ感が出ているという…。(2回に分けたのは、ネタバレのレベルを分けるという意味もありましたが)

 

とにかく、アップしました。

でも、まだモヤモヤしてる…。なぜ?

 

それで、なんでかなぁって色々考えるに、私はクライマックスを微妙に書いてないんですよね。公開前だからっていうのと、あまりにエモーショナルなので軽々しくは書けないと思って避けた。だけど、たぶん原因はそこなのです。

(ここからネタバレします)

 

これは2、3日前にふとぼんやり思ったけどんだけれども、あぁそうか私は映画の中のドンジュや モンギュに強烈に心を刺激されたのだと。あの映画はいろんな見方が出来るけど、一番精神的にキツいのは、自分で選んだ道を自分で否定させられることです。「これこそが世界で1番大切なのだ、私にとってはそうなのだ」っていう強固な気持ちが根底から覆される。夢見た自分を恥じる。その無念さ。感想を書いていた時に迷いに迷ったのは、歴史的にセンシティブな問題を扱っているだけでなく、映画自体が「正しいと思ってたことがひっくりかえる」っていうことを描いているからなのかもしれない。

 

私は戦争を知らないし、命も脅かされたこともない。詩人を夢見たこともなければ、政治活動もしていない。でも、かつて「この道だ」と思って長年打ち込んできたことと、いま全く関係ない世界で生きています。自分で選んだことですが、それは自分で思っていた以上にとても恥ずかく、無念で、悲しいことだったんだ。

 

本当にいい作品で、戦中について考えるきっかけになる映画であることは本当に本当に間違いないんだけれど、つまるところ、私が1番心を掴まれたのはそこだったのかもしれません。カン・ハヌルが出てるからっていう訳でもないんだな。(単にミーハーなだけなんじゃないかって思ったりもしてた笑。あ、でもカン・ハヌルもパク・ジョンミンも最高に素晴らしいですよ)

 

何を好きになるか、気にかかるかっていう原因は、結局自分にしかないのです。しかも、自分自身でもそれを把握しきれないという。自分の気持ちなんて、わからないものですね。

 

脚本のシンさんが「私たちはもっといい社会を作れる。ドンジュやモンギュの生き方を見ることで、そのような決心をしてほしい」というようなことをおっしゃってましたが、その意味を今更ながらやっと少しだけ実感しました。自分の人生の選択に、社会の状況っていうのは少なからず影響してるわけですから。

感想を書いてなお、理解はあとからやってくる。わかったと思っても、まだまだわかっていない。

 

拍子抜けな結論というか、自分語りみたいになっちゃって申し訳ないくらいなのですが、2か月本気で悩んで、感想も書いてみて、それで辿り着いたまさかの結論なので、けっこう腑に落ちています。これは映画であり創作部分があるからこそ、そう思えるわけで。ドキュメンタリーだったら、こういう気づきにまでは到達できなかったでしょう。違う捕らえ方をしてたはず。物語だから、そういう余地が生まれた。そういう余地を与えてくれた。

 

さて。

昨日は神保町にあるチェッコリっていう本屋さんで行われたとあるイベントに行ってきました。韓国・誠信女子大学のキム・ミョンソク教授と学生さんたちが尹東柱について語る会。

 

実は、立教大のパネルディスカッションで情報飽和状態だったので、 監督や出演者のインタビューはおろか、尹東柱の評伝もまだ一切読んでないのです。映画は創作部分も多いので、実際のドンジュはどんな人で、どんなふうに韓国で受け止められているか知りたくてお邪魔してみました。

 昨日の会では、小説、映画、ミュージカルなどで、どのように尹東柱がコンテンツ化されているか、っていうお話がメインだったんだけれど、とても興味深かったです。ドンジュをモチーフにしたミステリー小説とかすごく面白そう。

 

学生さんたちが、「ドンジュにとって詩は日記だったんじゃないか」「手紙だったんじゃないか」っておっしゃってたのも、すごく印象にのこりました。

私は映画を見る前に初めてドンジュの詩を読んだんだけど、その時にアンネ・フランクを思い出したんですよね。彼女は作家になることを目指していた人で、自分の日記にキティって名前をつけて、キティあてにせっせと文章を書いていた。手紙みたいな日記を。しかもキレッキレのユーモアある文体で。ドンジュの詩の作風とは全然違いますが、追い詰められたところで創作をしていて、それが心の支えにもなっていたのは、きっと一緒だと思うのです。アンネも日記で「将来どんな作家になれるだろうか」って書いたりしてたしね。

だから、日記とか手紙っていう解釈はすごく共感しました。

 

あと、教授が「韓国ではいまだにどうしても民族詩人のイメージがある。あまりに有名で、韓国人はドンジュを『読み直す』ことができない。先入観のない日本人の感想が知りたい」って問いかけられたんだけれど、私はこういう時に限って元来の臆病さを発揮し、ダンマリを決め込んでしまいました。先生ごめんなさい!

 

こんなところで答えるのはなんですが、アンネ以外で言うと、これは怒られるかな…もう歴史とか背景を全くかんがみないのであれば、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、中二病的な若者らしさを感じました。自意識との戦い。あ、ここにきて悪口とかじゃないのですよ!そこがいいのです。本当にこれは若くて純粋な心がないと、書けない(アンネもその強い自意識と常に戦っていた。というか個人差あれ皆、自意識とは戦っている)。

ドンジュの詩が「イタく」ないのは、素朴さと優しさをとどめていて、自己反省を自己防衛のためにしていないから。真摯な瑞々しさで、まっすぐに自分や世界を見つめている。だからみんなの心を打つのでしょうね(今でもすっと読む者を共感させてしまうのは本当にすごい)。彼は過酷な時代の中で自分のあり方を問い続けていますが、それはそうできることではありません。

 

私が特に好きなのは『たやすく書かれた詩』、『弟の印象画』、『風が吹いて』。あと『序詩』で心射貫かれない人はいるのかしら、っていうくらいね。とてつもないインパクトがある詩ですよね。あれは年を重ねれば重ねるほど、刺さるんだろうな。どんどん効いてくる。

 

昨日は映画の配給の方もいらしてて、上映が決まっているのは新宿と心斎橋だけだけど、これから営業をかけて30館公開を目指すとおっしゃってましたよ。楽しみに待ちましょう。

日本人はすずさんにこれだけ心を寄せていますし、ドンジュさんやモンギュさんに心を寄せる準備ができているんじゃないかな。

 

これで、ドンジュがらみの記事はひとまず終わります。尹東柱さんについてはゆっくり評伝などを読むとは思いますが、映画公開までは特にブログに書いたりはしないでしょう。また呑気なブログに戻ります笑。

 

尹東柱の命日に。