お出かけ手帳

誤字脱字病。書いては直す人生。

『椿の花咲く頃』 心に花畑を持つために

☆とてもネタバレしています☆

 

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こんにちは!

今回は『椿の花咲く頃』について書いてみたいと思います!昨年、韓国で放送され、数々の賞を受けた話題作です。日本でもすぐにNetflixで放送されて、多くのファンを獲得しています。

 

<目次>

 

あらすじ

舞台は架空の港町、オンサン。移り住んできたシングルマザーのドンべク(コン・ヒョジン)は、何の後ろ盾もない中、居酒屋的な飲食店の経営と子育てに奮闘し、6年の時が過ぎようとしていた。未婚であること、美しいこと、地元の男たちがドンべクの店ばかりに飲みに行ってしまうこと。ドンべクは何かと周囲にやっかまれ、オンサンに未だに馴染めていない。また、ドンべクの遠慮しすぎる性格も、馴染めなさに拍車をかけていた。 しかも(これは徐々に明かされるが)、ドンべクはオンサンで起きた連続殺人事件の唯一の生還者であり、犯人目撃者なのである。更には、ドンべクは7歳の時にたった一人の家族だった母に捨てられてもいる。ドンべクのこれまでの人生は過酷そのものだった。

そんなある日、ドンべクは、猪突猛進で天真爛漫な地元の警察官ヨンシク(カン・ハヌル)に出会い、一目ぼれされてしまう。こうしてドンべクの人生は、いよいよ動き始めるのだった。

 


『椿の花咲く頃』予告編 - Netflix

 

ブコメディーを基調としながらも、母子の愛、コミュ二ティの情、そしてサスペンスまで、様々なジャンルを継ぎ目なく行き来するストーリーで、気負いなく楽しめる作品だと思います。声出して笑っちゃうし、泣いちゃうし。

 

…なのですけれども…ファンが多い作品なのでこんなこと言っていいのか分からないんですけれども…正直言うと初見時は見るのがとても辛かったんです。

 

というのも、この作品全体を通じての大事なテーマのひとつが「自尊心(プライド)と劣等感」なのですよね。ラブコメとか、母子愛とか、コミュニティの情とか、サスペンスとかの全てに、このテーマが絡まっている。その描写があまりに切実なので、個人的には胸に刺ささりまくって結構な流血が続いてしまいました笑。

 

自尊心や劣等感っていうのは、集団の中で人間が生きている限り、誰もが問題を抱えやすい部分だと思います。主人公であるドンベクは子供の頃に親から捨てられたり、未婚であることで中傷を受け、自尊心を大きく損なわれてしまった人物でしたが、彼女以外にも多くのキャラがこの問題を抱えています。店の常連客であり町の名士?ギュテも、その妻ジャヨンも、ドンベクの息子の生物学的父親ジョンニョルも、その再婚相手ジェシカも、連続殺人犯ジョーカー(ガブリ)も…。名前を上げたらきりがないほどで、ほぼ全員といってもいいくらい。それほどに普遍的なテーマを据えて、どんな風に人間は前向きに生きることができるかを提示していたように思います。

 

あと、辛いといえば、序盤のオンサンの女性たちによるドンベクいびりが結構きつかった笑。「主観を大切に、腹が立つことがあったらちゃんと言う」っていうのは、この作品における大切なメッセージのひとつで、しかもそれが諸刃の剣であることまで製作者が認識していることを踏まえると、あの「いびり」描写も必要だったのだろうな、とは理解できるのですが、あんな言い方されたらみんな泣くと思う笑。

で、彼女たちだって、ドンベクに劣等感を刺激されところがあって、いびっているわけですから、やっぱり一人ひとりの心の問題が人間関係や社会にとって大事になってくるのだなと、観ながら思いました。

 

そんなわけ?で、劣等感というテーマを扱うこの作品は、「セルフヘルプのすすめ」的な内容を盛り込みつつも、個人の心、人間関係や社会の危うさ(最後まで危ういので驚いた)を描いていて、心温まりながらも、どこか最後まで冷たい部分を秘めた(ガブリ的存在も社会からいなくならなかったわけですし)不思議な感触が残る作品なのでした。

以下、長々と深刻に書いていますが、個人的に深刻なところをピックアップしているだけで(心に残ったことをまとめた個人的なノートだと思ってください汗)、あくまでもラブコメディーを基調とした、楽しい作品で、ドンベクという真摯に生きている女性の成長物語です。

 

「ピーナッツをサービスしろ!!」

第1話のクライマックスは、ドンべクが常連客に「ピーナッツをサービスしろ!」と迫られるシーンでした。

 

酔っぱらったギュテ:

「ピーナッツは?何故サービスしてくれないんだ。」

「スコッチを飲む客がこの町にいるか?この私しかいない。しかもこの建物のオーナーだぞ。それなのにピーナッツのサービスもなし?」 

「一気飲みしたら賃上げはしない。俺を見下しているだろ。群守になれないから?」(1話)

 

このシーンは幾重にも大事な意味が重ねられていました。

 

まず第一に、「自尊心と劣等感」というテーマをしっかり提示している、ということ。

ギュテは町の名士の息子で顔が広く、妻は一流大出身の弁護士。しかし、本人は特に何かのタイトルがあるわけでもなく、なんならあんまり頭もよくありません。不動産もあるし、お金にも困っていない。でも、それは本人の努力や能力によって得られたものではないのです。ギュテは劣等感が強い人物です。根は悪い人ではないんですけれどもね。

 

せめて美しくてちょっと「不幸そうな」ドンベクからピーナッツをタダでもらい、それを周囲に見せびらかすことによって、優越感を感じたかった(んだと思う)ギュテでしたが、ドンベクに拒絶され、彼の劣等感は余計に刺激されてしまいます。

困ったドンベクは一旦はピーナッツを出すものの、ギュテは更にドンベクに酒を飲むことを強要します。

 

そもそも、なぜドンベクの店『カメリア』が人気店になったか。オンサンは海産の町でカニのお店とか、飲食店がいっぱいあるんですよね。でも、地元の男たちはあえて『カメリア』に足しげく通っている。それは、オンサンの人間関係が狭いため(というか厚すぎるのか)、どの飲食店や飲み屋に行っても誰かしらの目があり、彼らの妻たちにその場の出来事が筒抜けになってしまうのを避けるためなんですよね。特に町の中心の「ケジャン横丁」にある店は家族経営、かつ妻がその実権を握っているため、ただでさえ妻に頭が上がらない男たちは、妻の目から逃れたい。そこにドンベクがやってきて、店を始めた。ドンベクには何のしがらみもない上に、美人。未婚の母だから、きっと自分より不幸。『カメリア』には自尊心を傷つける脅威はなさそうです。行き場のない男たちの集う場所なのです。

 

にもかかわらず、ドンベクに拒否されたギュテは、自尊心の根を傷つけられた気持ちになってしまいます。そして、このあと色々ぐずったり、小ズルいことをしようとしますが、それはそうと、このシーンはとにかくとても大事です。なぜなら、この場にはヨンシクも居合わせていて、ヨンシクの恋心が本格的なものになるからです。

ドンベクは強要された酒を「今日は飲みたかったから」と一気飲みしながらも、ギュテにセクハラはやめろと立ち向かいます。

 

ギュテ「いつもそうやって笑えばいいのに。オッパ(お兄さん)だと思ってピーナッツもサービスしてくれ。乾杯したりして楽しく飲もうじゃないか」

ドンベク「ノ社長、巻貝や豚肉の甘辛炒めやサザエの代金に、私の手首と笑顔の代金は含まれていません。ここは飲食店です。ここで買えるのは飲食物だけだという意味です」(1話)

 

ヨンシクは既にドンベクと出会っており、しかも既にドンベクを好きになっていました。しかし、それはドンベクが「美人だから」で、他の男たちとほぼ同じ理由でデレデレしているだけです。

しかし、この瞬間、ヨンシクの恋は自分だけの恋になります。毅然とした態度を見せたドンベクにかっこよさを感じ、俄然大好きになるのです。1話では彼はまだドンベクに子供がいることや、過去については何も知りませんが、それを知ったところで彼の気持ちは変りませんでした。彼の恋の本当のスタート地点はこのピーナッツのシーンだと思います。

 

また、このピーナッツに関連して、これは物語が進むとわかることですが、ドンベクは絶対に誰にもサービスで食べ物を客にあげない、というわけではなく、実は連続殺人犯には何度もサービスをし、ピーナッツもあげていたんですよね。殺人犯はこのドンベクのピーナッツを含めたちょっとしたサービスを受ける度に、「自分はそんなに哀れに見えるのか」と自尊心を傷つけられ、強い怒りを抱いていたのでした。これはすごい展開だなと思いました。

 

人に何かをあげる、あげない、っていうのは、相手を喜ばせ、あるいは傷つける可能性があり、しかもそれは与える側だけが決めるわけじゃない。受け取る側の心も同じくようにそれを決めていて、そこには自尊心や劣等感が大きく関わっているということなのですよね。人間同士で起きることの意味は、一方だけでは決まらないのです。

 

キムチを誰にあげるかは私が決める

ギュテの要求にはなんとか毅然とNoをつきつけたドンベクでしたが、彼女は基本的に「みんなに丁寧に接しないといけない」と思っている女性です。町の人たちに色々キツイことを言われて「彫刻刀で胸を削られたような気分」になっても、言い返すことはありません。ヨンシクはそんなドンベクを心配し、「聞き流せ。真に受けてはいけない。やり返せ」と諭します。

ヨンシク「言いたい放題言われて悔しくないんですか?」

ドンベク「みんなつらいことがあるとお酒を飲みにきます。厳しい世の中だから。私は人に優しく接したいんです。思いやりはタダなんだし。だけどみんなは私に、ひどく冷たく当たるんです。時々やりきれないくらいに…。」

ヨンシク「ドンべクさんはとっても美しいです。だけど、人をいらだたせるところがありますね」(2話)

 

ここで面白いのは、ヨンシクが「人をいらだたせるところがありますね」と言ってるところなんですよね。ドンベクが言ってることって普通っちゃ普通なことだし、共感できる内容だと思います。だから、「それもわかるけど…」か「それでも戦え」っていう反応が自然かなぁとも思うんですが、ヨンシクはいらだつんです。

 

ヨンシクは生粋のオンサン人です。で、オンサンの人っていうのは、みんなに優しくはしない(笑)。優しさは、あげたい人にだけあげればいい。それがオンサンでの当たり前なんです。

 

それがよく分かるのが、ヨンシクとヨンシクの母ドクスンとの会話です。

ヨンシク「キムチづくりはまるでバトルだな」

ドクスン「近所に分けたらすぐなくなる。キムチは分け合うものなの」

ヨンシク「それなら平等にわけてやれよ。仲間外れはなしだ」

ドクスン「気に入らない人にはあげないよ。決めるのは私だもの」(4話)

 

ドンベクのことが頭にあるヨンシクは、こんなにキムチを作るなら「平等に分けてやれ」と言いますが、母は「誰にあげるかは私が決める」と迷いがありません。あげてもあげなくても、相手がどう受け取るかはわからないのなら、あげたいという自分の気持ちをまず大切にするというのは、一つの賢明な考え方に思えます。嫌いな人にあげる必要がないので、自分の心にも無理がありません。相手を傷つける可能性もありますが、何かをあげるということは、つまりはそういうことなのです。

 

オンサンの人々は正直に生きています。仲良くなりたい相手には、自分の気持ちを与えて、そうでない人には何も与えません。キムチのエピソードはそれが象徴的に描かれていました。だからこそ、町の人々には結束感があり、親密です。

 

一方でドンベクはどうでしょう。皆に親切で感じよくしようとすればするほど、誰とも親しくはなれません。彼女は息子のピルグを誰よりも愛しており、自然に息子を特別あつかいします。それはとても自然なことです。それを、すこし、人の付き合いに広げてみてもいいのです。更に言うと、彼女が恋愛を望むならば、それをしなければならないのです。

 

しかも、このあとドクスンは「ベストフレンドにキムチをあげる」と言っていて、そのベストフレンドはドンベクなんですよね。今まで、町で唯一ドンベクの味方になってきたのがドクスンでした。夫に先立たれて、ドクスン自身も一人で飲食店を切り盛りしながら3人の息子を育てたので、ドンベクの苦労が分かるのでしょう。ドンベクは、この町に来て、ずっと一人だったわけではありません。ドンベクにもそのことは分かっています。

 

で、ヨンシクはそのドクスンの末っ子で、父を知らずに育った人です。誰よりも母に影響を受けたはず。だから、本当は彼もキムチは平等には分けない人だと思います。「ヨンシムのところに行け」と言われてもドンベクに夢中すぎて、全然行かないですしね(笑)。そこに平等なんて言葉はありません。誰かを好きになると、その他の関係と比べることはできないほどに、不平等が生じます。でも、そういうものなんですよね。

 

ドンベクにはキムチをくれる人がいました。

しかし、ドンベクの店で働くヒャンミは全くもらえません。ヒャンミは自分を大切にしないため、他者との関係を築くことができないのです。というか、そんなことはどうでもいいと思って生きています。

彼女は人からお金をせびるばかりで、全く与えることがありません。彼女が与えるのは弟だけ。しかも、弟はそのことに感謝もしていません。それでも彼女は与えるのです。与える人がたった1人になってしまう怖さが、彼女を通して描かれていたと思います。彼女が(ドンベク以外から)キムチがもらえないのは、仕方ないところもありましたが、とてもとても悲しいことです。

 

また、人と親密になるためには、誰かに何かをしてもらうことも大事です。甘えたり、頼ったりするのは、迷惑にもなりえますが、それをし合う仲だからこそ、親密だともいえます。ドンベクをいびりまくっていたご近所のチャンスクは、物語の後半でこんなことを言っています。

 

チャンスク「ねぇ、あまり遠慮しすぎるのもかわいくないわよ。ピルグとジュンギは親友だって言うのに、なぜもっと早く私に頼んでくれなかったの?気軽に言ってくれればいいのに!」

ドンベク「…お願いしてもよかったんですか…?」 

チャンスク「そうすれば私も息子を頼んで遊びに行けるじゃないの!!なぜそんなに遠慮するのよ!よく聞きな!時には遠慮なく頼み事もしてこそ、情が移って親しくなれるの!!!」(17話)

 

ヨンシクは救世主ではない(と思う)

この作品の魅力のひとつに、ヨンシクというキャラクターの面白さ、があると思います。

実は、私は最初、ちょっとヨンシクが苦手だったんですよ…笑。だって真っすぐすぎて、ちょっと怖いじゃないですか。ドンベクのことをロクに知らない時からかなりベタぼれで、なんか思い込みが強いのかな、怖いな、って思ってしまい…笑。

ただ、序盤のヨンシク描写は、意識して「一歩間違えるとダメな人」に見えるようにはしてたんじゃないかな、って思います。

 

ドンベクも、最初は「ヨンシクさんって変なアジョシ…」って感じなんですよね。

 

彼女とヨンシクの関係が変わったな、と思ったのは4話の最後での二人の会話です。

ヨンシクの母ドクスンにヨンシクがドンベクに夢中なことがバレ、ドンベクは町で唯一の理解者を失ってしまいます。なんだかんだ言って、ドクスンは自分の息子が未婚の母と付き合うことが嫌だったんですね(この展開もきついがリアル)。

実の母に捨てられたドンベクにとって、いつも優しく勇気づけてくれていたドクスンは「母のような」存在だったはずで、そのドクスンからの拒絶は相当こたえただろうなと思います。ドンベクは、また「母」から拒絶されてしまったのです。

そんな時の二人の会話。

 

ドンベク「こんな自分が恥ずかしくて、あまりにも情けなくて。なぜこうなの?学校では私だけ身寄りがなく、この町では私だけが未婚の母で、息子にお金の心配をさせるのも私だけ。かっこよく生きたいのに、せちがらい世の中では到底無理。やるせないわ」

ヨンシク「ドンべくさん、あなたは弱くない。他人にとってはあなたは一見不運な女に見えるけど、正直言ってあなたは幸せ者だと思う」

ドンベク「そうですね…」 

ヨンシク「身寄りのない未婚の母が、ピルグを立派に育てながら店を切り盛りしてる責任感もあるし、道徳的に生きている。そのうえ誰よりも真面目で一生懸命だ。それって賞賛に値することですよ。普通だったらとっくに挫折してます。だから忘れないで、ドンべくさん。あなたは誰よりも強くて素晴らしい人です。誰よりも立派です」(4話)

 

ここは、ヨンシクがドンベクを強く肯定する感動的なシーンで、もちろん私も感動しました。この前後の会話もすごくいいんですよね。

 

ただ、この二人の会話ってものすごいバランスの上で成り立っていると思うんです。だって、こんなこと言ったらなんですが、悲しい出来事で傷ついた自尊心が表出してしまっている女性をここまで大肯定するって、一種のマインドコントロールの手口にも似ているような気がするんですよね。こんなこと言われたら、少なくとも私はコロっといってしまう気がします…苦笑。下手したら、依存関係の始まりにもなりえそうですし。

ドンベクもそれがわかってるから、この後「そんなこと言わないで、誰かに味方されたら心が折れる、好きになったらどうするんだ」って泣いて言ってるんですよね。でもヨンシクはやめない。

 

ヨンシク「僕はカン・ジョンニョルとはちがう。絶対にピルグとあなたを泣かせたりしない。あなたが忘れないように、毎日でも話してあげます。あなたの素晴らしさを。だから、僕の気持ちを受け入れてください」

 

ヨンシクには裏がなくドンベクを信じていたからこそ、ここまでの言葉をかけていたけれども、ドンベクにとっては、ヨンシクがどれほど本気なのかはまだ分からないところもあったと思います。優しいことを言っても、「どうせいつかは去る」かもしれない。ヨンシクはドンベクにとっての災難にもなりえました。

 

でも、ドンベクはヨンシクの言葉を最後まで聞いて「人は誰かの奇跡になりえるだろうか」と自分の心に問うんですよね。こんなことを言うこの人は、私の奇跡なんだろうか。人は誰かの奇跡になりえるのだろうか。そして、交際するかどうかは別として、彼女はこの時のヨンシクを信じます(と思います)。つまりそういう判断をした自分自身を信じたわけです。

 

これは、ドンベクにとって大事な瞬間でした。この時心を閉じなかったらこそ、紆余曲折はあるけれども、この後、ヨンシクと前向きに生きるようになるのだから。恥ずかしいだとか、情けないとか、思わない自分になるのです。ドンベクが変わるにはヨンシクが必要でしたが、彼女がヨンシクに心を開かなければこのような物語にはならなかったでしょう。

 

ドンベク「ヨンシクさん、私がヨンシクさんに出会ったのは奇跡かしら」

ヨンシク「ドンべクさんは宝くじを信じますか?」 

ドンベク「いいえ、私は私を信じます」 

ヨンシク「僕もです。僕もあなたを信じます」(20話) 

 

ヨンシクって基本的には「ドンベクさんはすごい、きれい、かわいい…」系の褒め応援と、「ファン・ヨンシクはここにいます。何かあったら飛んでいきます」系の待機宣言?的なことしか言ってません(これが大事なんでしょうね。別れ話の後でさえ言っていた)。しかも、そのわりに、ドンベクに危機が起きている時に限って側にいないことも多いんです(特にガブリ絡みの時は)。ヨンシクはドンベクにとっての運命の人ですが、救世主ではありません。自分に起きた困難には、自分で立ち向かうしかない。ヨンシクは偉大なる「応援者」です。

 

また、ヨンシクは「訳ありマドンナに惚れてしまう純情な青年」って感じで、一見日本のドラマとか映画とかでも描かれてきたキャラに近い気もするけれど、その実、メンタリティーは違う気がしますね。あんまりイジイジしてないし。傷つくこともあるけれど、「自分なんか…」みたいな自尊心や劣等感の問題が表に出ることはほぼありません(この物語で、自意識に悩んでいないのはこの人だけかもしれない)。

 

じゃあ何も考えてないのかって言うとそうではなくて、実はいつも冷静にドンベクを観察しているし、よく話を聞いています。彼女を励まそうとするときは、自分の理論を押し付けず、彼女が言っていた事をそのままオウム返ししていることも多いです。この4話での告白も、ドンベクから「知らない場所でスナックを経営しながら一人で子育てをしたことが?」って言われたことをちゃんと受けていますね。ドンベクが本当に褒めて欲しいことは何なのかを、ちゃんと見抜いている。

 

ヨンシクって何かに似てるな…でもなんだろうってずっと考えていたんですけれども、ディズニー映画『インサイド・ヘッド』ってあったじゃないですか。ライリーっていう女の子の頭の中でヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリっていう多様な感情がキャラ化して、ライリーを応援している。あの喜怒哀楽たちをヨンシクは頭の外で一人でやっているのかなっていう感じが、私の中で(少しですが)あります笑。自分の感情が瞬時に外に出でいるだけでなく、ドンベクの感情さえも表現しているような感じ。

ヨンシクはなぜここまでドンベクを好きなのか、っていうのは物語のなかで追及されないのですが、そもそもそういう人だから、『インサイド・ヘッド』の感情たちのように、彼はドンベクのための存在でもあるから、って考えると、それも分かる気がするんですよね。ヨンシク自身は部屋や服装を見ても無個性ですし。物語での役割としては、本当に偉大なるドンベクの応援団長。

 

そんなふうに色々考えていくと、ヨンシクはほとんどファンタジー的存在のようでもありますが、それでも本当にどこかにいそうに思えてしまう、絶妙なバランスの上で成立している人物です。物語での役割はしっかり与えられていますが、それでもヨンシクはヨンシクのために生きています。

 

ふざけんなよ!!

ヨンシクに励まされ、そして実の母ジョンスクの登場により、ドンベクは少しずつ感情を表に出すようになっていきます。特に怒りをちゃんと表すようになっていく。母に対しては、再会してすぐに、自分を捨てたことに対して怒りをぶつけていますね(ドンベクが前向きになるには、母との問題を解決することが必至だったと思います)。

 

他者に対して怒るっていうのは、よくないことと見なされることもあり、また実際に人を傷つけることも多いです(町の女性たちの怒りを受けたドンベクは傷ついていました)。ヨンシクも「臆病な犬ほどよく吠えるし、器の小さい人ほどすぐ怒るものです」と言ってますよね。怒る、ということには、マイナスな要素が確かにあります。

 

でも、自分を大切に、あるがままに生きるためには、怒ることはとても大事なのだと、この作品を見ていると強く感じさせられます。自分を傷つけたり、貶めるような言動をする人に対して、怒りを感じるのは当然の心の動きですし、それを抑え込んで何も言わないままでいると、自尊心はもっともっと傷ついてしまうのです。ヨンシクもなんだかんだ言って、よく怒っていますね。

 

「厳しい世の中だから。私は人に優しく接したいんです。思いやりはタダなんだし」と、町の人や客に酷いことを言われても耐えるだけのドンベクでしたが、ヨンシクや母の影響で、だんだんと怒りをぶつけるようになっていく。無礼者のギュテにもちゃんと怒ります(最初はクソ野郎と言いたくても「ク…」までしか言えないのが、なんかわかる笑)。

 

で、怒るときに出てくるキーワードが「ふざけるな(カブリジマラ)」なんですよね。

ギュテ「アイムソーリーでございます!…これでいいか!?」

ドンベク「二度とふざけないで!!!」

ギュテ「まるで別人だな」 

ドンベク「もう昔の私じゃありません!ピーナッツなんて言ったら…バン!迷わず攻撃しますから!!」(7話)

 

「もう昔の私じゃありません」のところは(たぶん)韓国語では「昔のドンベクは死にました」って言ってて、ドンベクの本気が伝わってきます。

 

それから、うぬぼれ屋の元交際相手で息子の父親ジョンニョルにも。

 

ドンベク「私はもう逃げないわ。ふざけないで」(9話)

 

作中には「ふざけるな」という言葉がたくさん出てきます。ドンベクの母ジョンスクも、ドンベクをバカにする人達には「ふざけるな」と怒っていますね。貶めるような言葉を発する人は何の気なしに、無意識に言っていることも多いわけですから、「ふざけるな」、こっちは本気なんだ、と相手に伝えなければ、またいつ起こるかもわからないし、いつまでも傷は癒えません。なめられないように、堂々と。失礼なことを言ってくる人には、ハッキリと「ふざけるな」と立ち向かわなければならないのです。

 

 ドンベク「ヨンシクさん、わかったんです!私がいじめられる理由をずっと考えていたんですが、わかりました!」

ヨンシク「なんですか?」

ドンベク「なめられてたんです。ジャングルでも食われるのは怪我した動物と子供と臆病者ですよね。ライオンがガゼルの群れに近づくと、ガゼルが気配を察して凍り付くでしょ。その中で一番ビビってるやつ、ライオンは本能的にそいつに食いつくの。私はチョロいと思われていたんです。母親がなめられてるから、子供もからかわれるんだわ。逃げたりするもんですか」)(9話)

 

それでですね、この話が怖いのは、殺人犯であるガブリ(ジョーカー)も「ふざけるな」とその場で言えない人だということなんですよね…。普段はとても大人しくて、酷いことを言われてもその場で怒ることができず、「思い出すたびに悔しくて仕方」なくなってしまう。そして、自尊心を踏みつけられたと感じた人を、後から殺していた。

 

殺すのはダメですよ。絶対に。でも、ドンベクも「自分を見ているよう」って言っているぐらいだし、何か言われても言い返せない、ってすごくわかるんですよね。後から思い返すたびに悔しくて仕方ない、っていうのも。私めっちゃあります、こういうこと笑。後から「あれってめちゃ失礼じゃないか!」って気づくパターンも本当に多い…泣。ヨンシクは「ガブリは劣等感が生んだ怪物だった」って言っていますが、その場で正しく怒れる瞬発力って、自尊心がしっかり備わってないとできないんですよね。ガブリの顛末を見て、怒りを貯めちゃいけないんだな、と深く感じ入りました。

 

ただ、繰り返しますが、どんな理由があろうと殺すのは本当に絶対にやってはいけないこと。ドンベクも滅茶苦茶に怒ります。ガブリにビールジョッキを殴りつけて。このシーンでは、彼女が過去の弱い自分と完全に決別していたことを、表していたと思います。

 

 ドンベク「この人殺し!!これはヒャンミのジョッキよ!ふざけないで!!なによ文句ある?(以後、放送禁止用語が続く)ふざけないでよ!!冗談じゃないわよ!!あんたがジョーカー?人が大勢いたら何もできないくせに!!!」(20話)

 

また、怒りはごく親しい間柄でも発していく必要があります。

ヨンシク・ドクスン親子は、何かあればすぐ怒鳴り合っていますが、だからこそ、良好な関係です。彼はドンベクにも、嫌なことは嫌とハッキリ言っていますよね(葛藤しつつもですが)。

 

また、ドンベクの息子ピルグも、子供ながらに、母に怒りをぶつけています。ピルグにとってはドンベク以上に大切な人はいないわけで、「オンマのことが大好きだ」「自分を大事にしてほしい」ということを、折に触れて、涙ながら全身全霊で訴えます。切実な怒りなのです。また、それを遠慮して言わなくなったらどんなにひどいことが起きるかも、しっかりと描かれていましたね。

 

ピルグ「(泣きながら)僕だけいればいいって、そう言ったのに結婚を?母親のくせに何が結婚だ!少しは僕の立場になって考えてよ。僕はまだ小学生だから結婚に逃げたり軍隊に行ったりできない!行く当てがないんだ!僕だってつらいんだ!!つらくてたまらない!!」(18話)

 

いい呪文と悪い呪文

ヨンシク「これからドンベクさんはなんていうか…自由に生きて」

ドンベク「幸せにとかじゃないの?」

ヨンシク「言う必要ないです。”幸せになって”なんて言わなくても幸せになれるはずですきっと。ドンベクさんは素敵で美しい人だから」

 ドンベク「ヨンシクさんのそういう言葉が魔法だった。励ましてくれたから、世界が違って見えた。本当にありがとう」(19話)

 

ヨンシクの徹底的な励ましは、ドンベクを変えました。ヨンシクの言葉は魔法の呪文のようだった。言葉によって、私たちは人をこれほどに勇気をもらうことができるんですね。

 

ただ、この言葉の魔法には、いい呪文と悪い呪文がある。悪い呪文はいつまでも心に残り、私たちを苦しめることがあります。

ドンベクも今までの人生で、何度も悪い呪文にかけられ、子供の頃に言われた言葉さえいまだに覚えていると言っていますね。ガブリも他者からの言葉に傷ついてきた一人でした。

 

と同時に、言葉は受けるだけでなく、与えるものです。私たちはヨンシクのように、よい呪文を周囲の人にかけることができます。しかし、ここでもその一方で、私たちは悪い呪文をかけることもできてしまいます。

 

このドラマの残酷な展開のひとつは、ヨンシクの母ドクスンが悪い呪文をかける側にまわってしまうことです。ドクスンはドンベクとピルグに温かい言葉をかけてきた人物でした。しかし、息子の幸せと将来を思うあまり、「8歳の息子は勘弁してくれと言っているの、こぶ付なんか歓迎できる?」とオンサンの女性軍団に話してしまうのです。不幸にも、この言葉をピルグは聞いてしまいました。彼は深く傷つきます。

 

ドクスンは基本的には道徳心が強く、心の広い人物です。息子に子持ちの交際相手がいなければ、このような大人気ない感情をわざわざ口に出すことはなかったんじゃないかと思います。彼女の心はそれほどまでに乱されていました。大事な息子のそばに迫る「陰」の可能性はあまりにも受け入れ難く、そのストレスは彼女を彼女でなくさせてしまいます。

 

ドクスン「自分でもなぜあんなことを言ったのかわからないの。口は災いのもとね。”こぶつきはごめん”だなんてひどいことを。その言葉に深く傷ついたはず。謝っても謝りきれない」

 

ドクスンは「子どもだから一生の傷になる。固まる前のセメントをひっかいたら、一生傷が残るでしょ」と言っていて、自分がしてしまったことの重大さが分かっています。それでも、「なぜあんなことを言ったのかわからない」のです。自分以上に大事な息子が、少しでも苦労する可能性を彼女は中々受け入れられません。かぎりなくゼロに近い可能性であっても嫌なのです。息子の苦しみを想像するだけで、彼女は危機に陥り、それは彼女の自尊心が危機にさらされている、ということでもあったと思います。

 

ドクスンのように、どんな人間でも悪い呪文を言ってしまう可能性はあります。それは心を守るために起きる、ある種の反射なのかもしれません。良い呪文をかけるには意志が必要ですが、悪い呪文は無意識にでもかけることができてしまいます。

 

「相手に怒りや不満をぶつけることは時に必要だ」、と書きましたが、そこにも節度は必要なのです。やみくもに感情をぶつけることは、相手を傷つけるだけになってしまいます。トクスンはピルグに悪い呪文を直接言ったわけではありませんでしたが、それでも彼を傷つけてしまいました。

 

また、良い呪文にも相手への敬意が不可欠です。励ましは優しさとは限らない。(あぁ本当に難しい!人生は修行!)

 

ガブリ「安易に同情するのは、よくないですよ」(20話)

 

ジョンニョル「人を励ますことで、優越感を得ているんだろう。俺も打率が下がるとこぞってファイトって。 

ジェシカ「それで寂しい思いを?」

ジョンヨル「夫婦そろって寂しがれないだろ。同情は簡単だが憧れは難しい。憧れと嫉妬は紙一重だから。スターでいるために必死だった。あのちっぽけな世界の中で」(20話)

 

心の花畑

物語には、無意識に発する言葉でお互いを傷つけ続けてしまったカップルが出てきます。ギュテとジャヨンです。二人はお互いに愛があるにもかかわらず、自分の心と上手く向き合うことができず、相手を傷つけることばかり言ってしまいます。また、周囲の人も度々傷つけています(特にギュテ)。

 

しかし、ギュテは自分の心の状態に気づきます。彼は殺人容疑をかけられたことで、自分と向き合い、何が問題だったのか、ということに気づくのです。

 

ギュテ「俺がわるかった。女として見てやらず、母親役ばかりさせてごめん。でも君がしかるのが愛だったように、俺が反抗するのも愛だった。君の前では男でいたくて、だからわがままを。すまない、悪かった」(19話)

 

この「俺がわるかった」のところ、実際には「悪かった、お前をオンマにさせて」とハッキリ言っています(と思います)。ジャヨンはこの言葉を聞いてかなりショックを受けた表情を浮かべていました。すごい言葉ですよね。

 

ギュテは、自分が妻に対して、母親のように依存していたことに気づきます。妻の前で「立派な男」にならねばと焦るたびに、上手くいかず、しかし離れたくはないから、子供のようになって甘えていた(彼が妻にずっと避妊を要求していた、というのも、キツいが納得できる)。「男性」としての劣等感に苛まれていたんですね。

 

ギュテは「甘やかされた子供」であり、自分で何かをすることがなかなかできない人です。これは、本人の問題もあるけれど、彼のお母さんがやっぱり関係しているようです。ギュテの父親は浮気症で家を空けていたようですし、母親の愛情が全て子供に向かってしまっている。

これはジェシカも同じようなんですよね。彼女は「オンマ、私に考えるなと?オンマが何でもやるから私が馬鹿になったの」とハッキリ母の過干渉を責めています。

(これはつまり、ギュテ父やジェシカ父に問題があったということで、そういう父親を存在させる社会にも問題があったということですよね。)

 

ギュテのお母さんに対しては、ジャヨンが責めてますね。

ジャヨン「私のストレス解消法をご存じで?お義母さんにいびられたら、数倍にしてギュテに返しました。親族の集まりがあるたびにギュテも嫌な思いを。私がつらくあたったので、お義母さんから受けたストレスをギュテに。これが自明の理であることはお分かりのはずです。 

ギュテ母「私を責めてるの?嫁をいびると息子が苦汁を飲まされる。私にそう忠告してるわけね」 

ジャヨン「お義母さんは私をイビリ、私はギュテにあたる。ギュテは私の顔色をうかがい、お義母さんはまた私をいびる。私たちはみな、この悪循環の被害者だったんです」(17話) 

 

義母は優秀な嫁ジャヨンに劣等感を感じ、指導権を握るためにいびっていて、それが余計にジャヨンをいらだたせ、夫婦仲を悪化させていた。

そして、前述のようにギュテにも問題があった。 

しかし、ジャヨンがギュテと上手くいかない理由は、彼女自身にもありました。

 

ジャヨン「ドンべくさんの笑顔って、周りの人に劣等感を抱かせるって知ってる?」

ドンベク「先生が私に劣等感を?」

ジャヨン「ドンべくはずっと不幸だと言う人もいる。不幸そうな人を見て自分を慰めているのよ。でもドンべくはよく笑うし、おまけに美人。だからムカつくし、劣等感に悩まされる。これからもたくさん笑ってね。幸せな姿を見せつけてやるといいわ」

ドンベク「でも、幸せを見つけるのはもう諦めました」 

ジャヨン「なぜ諦めるの?」 

ドンベク「人の評価なんてどうでもよくなったんです。以前は幸せを成績表だと思ってました。他人が並べた成績表を見て、私はどのあたりかなって。でもどんなに見ても、答えは出ませんでした。気にするだけ無駄ですよね。オーケー、幸せの基準は私が決めるって思うことにしました。自分が幸せならいいわけですから」 

ドンベク「ドンべくさんの心に花畑があるのね。私は人もうらやむ有名大学を出たけど、花畑がない」(19話)

 

ドンベクは、「他人からの評価ではなく、自分が自分をどう思うか、を大事にするようにしたのだ」と言い、ジャヨンはその状態を「心に花畑がある」と表現します。これは、自尊心のことですよね。

ドンベクは、もともとは自尊心が低い女性でしたが、ヨンシクに出会い、また母と再会したことで、自分で自分を肯定できるようになりました。

 

一方で、ジャヨンは世間で「良い」とされる価値を獲得しているにもかかわらず、尚も「花畑はない」のです。思えば、彼女は自分のプライドを守るために、夫を叱りつけ、ドンベクやヒャンミ、そして義母に「負けまい」と奮起していきた。しかし、守ろうとしていた自尊心は、そもそもなかったんじゃないか。そのことに、やっとジャヨンは気づくのです。

 

私は、この作品の全体を通して、このジャヨンに一番ぐっときてしまいました。自分の自尊心、あるいは劣等感を直視することって、かなりしんどい作業ですよね。プライドが高い人なら尚のこと。見て見ぬふりをして、相手を攻撃したり、威嚇することで、心を守るほうが楽です。でも、それを続けていても、心は穏やかにならない。ジャヨンに必要だったのは人に勝つことではありません。彼女に本当に必要なのは、世の価値が決める勝ち負けとは関係なく、ただそこにいてもいいのだと、いう心の状態であり、「心の花畑」=真の自尊心なのでした(彼女の仕事が弁護士というのも、なんとも切ない)。

 

ジャヨンが自尊心を獲得するためには、まず自尊心がないこと、心のセイフティーネットになるような自己肯定感がないことを認めなければ、前に進めません。心の花畑がない人間が、心の花畑を持つためには、まず「自分には花畑がないんだな」ということをしっかり認識しなければならないのです。

 

ジャヨンはこの痛みを伴う認識を、やっとここでします。肩の荷が下りたのか、このあとベロベロに酔っぱらってしまうっていうのがまた泣けました。

こうして、ジャヨン、ギュテ、ギュテ母、が上手くいかないのは、三者ともが自尊心に問題があったわけですが、物語を見る限り、ここから良い方に向かいそうでよかったです。

 

また、自尊心の有無を「心に花畑がある・ない」という言葉で表現していることにも、感銘をうけました。「自尊心がない」とか、もっと言うと「劣等感が強い」っていう言葉自体にとても威力があるので、それが事実であっても、口にしてしまうだけで傷ついてしまうこともあると思うんですよね。ジャヨンだったら、おそらく容姿や女性としての自分にコンプレックスがあるのだろうな、とは推測できますが、そんなことをわざわざ口にしなくていいよ、と心から思ってしまいます。あえて、そいう「不都合な心の真実」を口に出させる心理療法みたいなのもあるっぽいんですが、なんか無理やり傷口に塩を塗り込むみたいで、個人的には嫌だな、と思っていたんですよね(私は心理学の知識はありませんが、個人の感想として…)。最終的には直接対峙しなければないとしても、少なくとも、準備がないままに、いきなり心の核心部分にぶつかるのは、危険な気がするのです。

 

だから、「心の花畑」という言葉を使うことは、自分の心と向き合う垣根がずっと低くなる気がして、いいなと思ったのです。「心の花畑がないから、まずは土を耕してみようかな」とか、「花は咲いていないけど、つぼみはあるかもしれない」とか、そんな例えの表現で心と向き合っても、癒しはあるのではないかと思います。

 

「数の論理」は危ういけれど…最後の砦

ガブリ「ヨンシクさんがあまりにも純真に生きているのが、気に入らなくて。だから教えてあげようかと。ガブリはどこにでもいる。誰でもなりえるし、また現われる」

ヨンシク「お前は最後の悪あがきで薄気味悪い余韻を残したいようだが…多勢なのはどっちだ?悪人はそういないが、善人はいくらでもいる。映画なんかでもそうだ。警察は常に群れを成して悪に立ち向かうだろ?巨大組織だからな。お前たちがどうあがいても頭数では勝てない。これが数の論理さ。優位に立っているのは、俺たちなんだ」(20話)

 

ガブリが逮捕され、いよいよ物語は収束に向かうなか、このガブリとヨンシクの会話にはドキリとさせられました。「ガブリはどこにでもいる。誰でもなりえるし、また現われる」と言われたヨンシクは、「悪人よりも善人の方が多い」という論理で反論しているのです。これってすごく、危ういのでは…と。

 

Netflixでの予告で「人の心なんて、たったの3秒でひっくり返ってしまう」ってヨンシクは言ってましたが、心はいつも揺れていて、ささいなきっかけで真逆に向いてしまうことは往々にしてあります。優しく道徳心もあるドクスンですら、ひどいことを口にすることもある。善人が「悪人」になる可能性はいつだってあるのです。それをガブリは指摘しているんですよね。ヨンシクにも人間の心の不確かさはわかっている。

 

しかも、ガブリ本人にも周囲にも、彼が「こう育ったのか、こう生まれたのか」はわからないと言います。無意識に悪い呪文が生まれたように、ガブリのようなケースも、心掛けでとうにかなる問題なのかも、実際のところはわかりません。誰の心も揺れています。それでも、人々の善なる心を信じるしかないのです。私たちの社会は、それほどに不確かなものです。

 

とはいえ、ガブリのような悪に走る人は、確かに多くはないんですよね。ドンベクはガブリと近い問題を抱えていましたが、人を殺そうなんて全く思っていない。また、劇中に、ヒャンミを「殺してやる」とか、「死ねばいい」と思ってしまう人は結構いるけれども、実際に彼らは殺しはしません。ガブリだけが、その一線を越えているのです。

 

また、ヨンシクは警官で、ある意味、悪の存在を認めている人です(警官になる前から悪に対して敏感でした)。彼の中では悪は悪で、悪のない世界、みたいなものを求めている風でもない。「根はみんないい人」というほどのお人よしでもない。

 

そうなると、確かに、数の論理ぐらいでしか対抗できないけど、あそこまで強く言うのもわかるのですよね。悪人はいる。だが、善人もいる。たくさんいる。人の心が固定されていないからこそ、いざとなったら善なる行動を起こせる人はたくさんいる。物語序盤でドンベクをイジメていたオンサンの人々は、ドンベクの心の変化を受け入れ、最後にはドンベクのお母さんの命を救っています。

 

物語の最後に映し出されたメッセージは、そんな市井の人々がいるからこそ、現実の世界でも数の論理が守られているということを思い出させます。彼らを祝福すると同時に、一人ひとりがありのままに生きられますように、という祈りにも聞こえました。個人の幸せは、社会の幸せにつながっています。

 

作品最後のメッセージ:

「人は誰かの奇跡になりえるだろうか。今はもうあなたの花が咲く頃、この世で一番強くて、一番タフで、誰よりも素晴らしく、誰よりも立派な、数々の苦難を乗り越えて、毎日奇跡を起こしている、あなたを応援しています」(20話)

 

誰もが「この世で一番強くて、誰よりも素晴らしくて、誰よりも立派」。誰かと比べる必要がないから、誰もが本当に一番なのです。

 

数の論理の話題が出たあたりで、「民衆が一致団結したら、政権だって覆すんだから!」とチャンスクも数の力を擁護していて、韓国は実際にそういう国なので説得力があるのですが、日本に住んでいる者としては、なんともうら寂しい気持ちになってしまいました。人々が無関心だったりやる気がなければ、それも起きないわけで、自分を愛し、他者に関心を寄せなければ、個人の幸せも、社会の幸せもないのですよね。

 

ドンベク「確かに変な街ではあった。私を嫌ってるくせに、キムチはくれるの。漬けると必ずくれる。早く持っていきなって怒りながら。だから感謝してるの。意地悪はしないけど、キムチもくれない。そんな街よりましだわ(9話)

 

追記:人としての一線を越えてしまう「悪」と共存しなければならない社会で、この作品が示す「悪に対する救済」もまた「自分を愛すること」なのだと思います(ガブリも「自分のことが嫌だ」と言ってるんですよね)。<2020/11/25>

 

女性であることの苦難

もうめちゃくちゃ長くなってしまい恐縮ですが、最後にこれも書かせて…!それは、この作品を通して描かれる「女性であることの苦難」について、です。

 

物語は自尊心や劣等感について、様々に描き出していますが、そこには「女性が女性というだけで貶められてしまう」というケースも含んでいます。オンサンは女性優位な社会なので、通常よりはそれが少ないんですが(年配男性は出てこない)、それでもドンベクが「カメリア」の店舗の下見をしている際に、ギュテは「ご主人に話がしたい」と、ドンベクを一人の借主として見ていませんでした。ドクスンは夫が亡くなった際に「夫の不幸は妻の運が悪いせい」と周囲に責められます。

 

オンサンの外に出ると、それはもっと厳しいものになります。ジャヨンは運転中に知らない男から「運転なんかしてないで嫁にいけ」と罵られ、ジェシカは人気者の夫ありきでしか仕事ができません。ジェシカの母は横柄な夫に虐げられています(最後には夫にキレていましたが、実際にはかなり勇気がいると思います)。未婚の母だったジョンスクは、寄る辺もなく、仕事も賃金が低い将来の見えないものばかりで、結局娘を捨てる選択をしてしまったほど追い詰められました。

 

そういった中で、ドンベクとヨンシクは、男女の恋愛における、「男性が女性を守る」というステレオタイプな関係を打ち破っています。ドンベクはヨンシクがいなくても、物理的には生きてはいけます。彼女は経済的にも、精神的にも、ヨンシクに依存はしていません。ヨンシクは、いつも「ドンベクさんは誰かに守られるような人じゃない」「一人でも十分に強い」と言っています。二人は対等であり、共に人生を歩むパートナーです。

 

しかも、ヨンシクはドンベクよりも年下なので、ヨンシクは「オッパ(お兄さん)」じゃないんですよね。このあたり、私はよく分かってないところもあるんですが、「オッパ」という呼び方には、どうしても力関係が平等でなくさせる何かがあるんじゃないかと思ったりもするのです。兄妹間やいい関係で使われるならば問題ないのでしょうけれど、ギュテはやたらと「オッパ」と呼ばれたがっているし、ドンベクは子供の頃、母の勤め先の客を「オッパ」と呼び、母からひどく怒られています。韓国では身近な間でも上下関係をハッキリさせているとわかりつつも、「オッパ」という言葉は難しい部分を孕んでいるのかな、と感じました。

日本語でも「ご主人」(これはもう明らかに上下関係っぽい感じ)とか、「旦那さん」とか、「奥さん」とか、色々ありますしね。

 

逆に、ギュテが年上のジャヨンのことを「ヌナ」と呼んでいるのも、どこか依存的な甘えの響きがあって興味深いし、彼の「ちゃんとした男」になりたいのになれない、という劣等感も、社会が生んでいる圧力の結果のひとつだと思います。ジャヨンも女性としての自分に悩んでいたわけですしね。

 

この作品はあくまでも自尊心や劣等感をテーマにしていますし、ガブリの殺人も直接的な女性憎悪から起こるものではありませんが(追記:間接的にいえば蔑視はあるでしょう)、女性は生きているだけで自尊心が削られることもあり、そういった描写もさりげなく散りばめられていました。ドンベクが「小学生の頃は男子を殴ってた」はずなのに、委縮した大人になってしまっていたのは「女性であった」ということも関係していたと思います。それに、彼女はいざと言う時には、勇気を出して立ち向かう時もありました。だからこそ、ヨンシクは彼女を好きになったのです。ドンベクを押し込めていたのは、彼女自身だけでなく、社会でもあったと思います。

 

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またも長くなってしまいました…。20話もあって、長いし、複雑だから、要点も多いのよ汗。母の物語もあるけれど、そこはもう見たままだからいいかな。母を聖母とせず、深い愛情がある一方で、過ちも犯す存在として描いていたところがよかったです。特に、ヨンシクの母ドクスンさんが、息子のことになると普段の自分でいられない、矛盾を抱えた人物となっていて、とても印象に残りました。自分が言われて嫌だったこともドンベクに言ってしまう、っていうのがね、本当に生きるって難しいことなのだなと感じました。

 

あと、ジェシカね。秘密があるから、余計に劣等感が強くなっていたのが気の毒でした。育児放棄気味だったのが、また辛い…。SNSはほどほどにね。SNSとの付き合い方は本当に難しいです。

 

あ、あと!これは個人の意見ですが、ドンベクは最後にコミュニティの一員となり、幸せになりますが、それは彼女が望んだからであって、もし望まないのであれば、そこから去ることも時に大事だと思います。オンサンの人たちはドンベクの変化を察知して変りましたが、そうじゃない人もいるのでね…。コミュニティは一つではありませんし、無理に付き合って傷つけられ続けることがいいことだとは思いません。

 

というわけで、そろそろこの記事も終わりです。

身近な世界を舞台に、巧みに話があちこち進みながらも破綻はなく、ユーモアたっぷりに見る者を飽きさせない、とても面白い作品でした。「ありのままの自分を大事にしよう」という、厳しくも優しいlove yourselfなドラマです。誰かを健康的に愛するためには自分を健康的に愛することが必要だけれども、自分のことがすぐに好きになれなくても、誰かを好きになることが、自分のことを好きになる道に通じているのかもな、とドンベクの恋は思わせてくれました。どちらが先でも、それは可能な気がします。

 

初見時には「なぜ私の人生にはヨンシクがいないんだろう」と思わなくもなかったけれど笑、自分を応援してくれるヨンシク(のような存在)は心の中になら住まわせることはできるから、「大丈夫、まぁなんとか、がんばってみようかな」と今は思います。それが花畑であり、自尊心と呼ばれるものなのかもしれませんね。