お出かけ手帳

誤字脱字病。書いては直す人生。

『シスターズ』11・12話 新しい生き方へ

※ネタバレしています。

 

こんにちは!

ドラマ『シスターズ』は11、12話を迎え、遂に物語が完結しましたね。正直、予想とは違う着地になり、ちょっと驚きました!でも面白かった!

お金の呪縛については6話まででかなり描かれていたので、社会のあり方についての話になるのかな、と思っていたのですが、最終的には個人のあり方のお話になりましたね。インジュとドイルがあの状態で終わったり、三姉妹が再集結せずに終わったのは少し寂しいですが、全体主義に対抗するための個人主義の話、と捉えると、納得の終わり方です。

 

 

「人はお金に操られている」

ファヨン「人は自由意志に基づいて生きているようで、お金に支配されています。人を半分に切れば巨大な金食い虫が出てくるはず。お金に操られず、人が人らしく生きるにはどうすべきでしょうか」(11話)

 

『シスターズ』はキャラクター造形を通じて、お金の呪縛についてはかなり詳細に描いていました。特に長女であるインジュは最もお金で苦労をし、お金にふりまわされて生きている人物です。

 

mikanmikan00.hatenablog.com

6話まで見た上で書いたこの記事は、多少違うところもありつつも、方向性としては合っていたように思います(ということにしよう笑。ファヨンオンニには強い復讐心があったのですね。。)。

 

私たちの多くが、お金に振り回されて生きていて、ファヨンオンニはそれを「金食い虫がいる」と表現しました。これは「もっとお金がなければいけない」と経済に洗脳されている、とも言えると思います。

また、生きる満足感がなく、自己評価が低いと、お金というわかりやすい価値に寄りかかりやすく、またお金を欲する気持ちを利用しようとする人間がでてくる。

作中にでてくる青い蘭は、まさに人をコントロールするための道具であり、「お金の呪縛」と「マインドコントロール」が合わさった象徴的モチーフであったと思います。

 

お金には恐怖と欲望が紐づいていて、人をコントロールするのにもまた、恐怖と欲望が必要です。しかも、恐怖も欲望も人間なら誰しもが持っているものなので、人間は思った以上にコントロールされやすい存在なんだと思います。余談ですがSNSが危険をはらんでいるのも、この恐怖と欲望を刺激しやすいのがひとつの理由なのかもしれません(だからやめられない)。

 

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ジェサンは演説で「恐怖とはなんでしょう」と人々に問いかけていましたし(10話)、イネが人形を盗んだ時の会話など、人の欲に目ざとく気づいていました。彼はウォン家の後継者として、恐怖と欲望を十分に利用し、組織の考えを体現してきたようです。

 

しかし(だからこそ)、ジェサンは情蘭会や家族を守るためとはいえ、あっさりと自死してしまいます。あんなにあっさりと自ら死んでしまうとは…と思いますが、彼は当たり前のように死んでしまった。彼もまた、コントロールされた存在でした。

 

コ室長「数多くの死を見てきましたが、理事長の死ほど我らの信念を表した死は初めてです。皆を救うために最高の地位を捨てるなんて」(11話)

 

情蘭会は全体主義に対抗する全体主義

最終回では、情蘭会のメンバーはベトナム戦争中に国から見捨てられた存在だった、ということが明かされました。これは相当な屈辱です。

 

インギョン「ふと考えました。私がベトナム戦争の記事をどう書くのか。戦況を書いて戦線を描き、死者数を伝えるでしょう。でも、どんな人が死んだのか。なぜ戦地に行ったのか。どんな夢を失ったのか伝えられるでしょうか」(12話)

 

戦争とは全体主義の最たるもの。個人の気持ちや事情など、まるで気にされません。将軍たちが全体主義の犠牲者になったことが、情蘭会の始まりでした。

 

それなのに、その後青い蘭と出会った将軍は、自らの全体主義的な集団を作り上げ、国家に対抗していきます。青い蘭は全体主義の象徴でもありました。将軍にとっては全体主義を下した国家に対抗する術が、全体主義しかなかったのかもしれません。

 

しかしこれでは、全体主義は個人を犠牲にする、という一番の屈辱的な部分も、情蘭会に同じように導入されてしまい、悲劇は終わらないままです。ジェサンも、情蘭会のルールに従わなければ死ぬことはないのに(そのルールを作った将軍は昏睡状態なのに!)、そのコンセプトから抜け出すことなく死んでしまいます。後ろ盾を得て、自分の欲望を満たすはずが、そのエゴは全体主義に飲み込まれてしまいました。

 

全体主義に馴染み切れなかったサンア

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青い蘭を手に入れた将軍は帝国を築いていきますが、家族が将軍と同じように感じているわけではありません。将軍の妻であり、サンアの母は、将軍の蛮行が許せず教会に告白しようとしたため、長い間幽閉されていました。サンアの兄サンウも、将軍がやってきたことが許せませんでした。

 

サンアは揺れながらも、将軍のルールに従うことで、自らの居場所を作った女性です。逃げることもできただろうし(母は「逃げて」とメッセージを残していた)、実際に海外に留学したりして逃げようとしたこともあったのかもしれないけれど、結局は他に居場所を見つけることができなかった。

 

ですが、情蘭会がサンアにとって居心地がいい場所であったわけでもなさそうで、その一つの理由として彼女が「自分が女性だから後継者になれなかった?」と感じていたことが明かされます。

確かに情蘭会は軍の部隊が発祥なので、男性的で、家父長的な色合いが濃いと思います。サンアは父親から蘭しかもらえなかったことも、根に持っていたようでした。

 

しかし、内情を知る校長はそれを否定します。

 

校長「自分のことしか考えず、決定的瞬間に犠牲になれない。今も己を犠牲にして(死んで)組織を生かすべきなのに逃げることを考えている」(12話)

 

自分を犠牲にしないって、実はいい面もあるわけで、自分を大切にすること自体は悪いことではありません。でも、全体主義の社会では確実に悪とみなされます。

 

組織の中で自分を活かしきれず殺しきれないサンアは、いつも欲求不満で目先の欲を満たすことばかりを考えていたように思います。校長からは「君は触れる全てを壊さないと気が済まない」とも言われていて、これはお母さんの事故のこともあるかと思いますが、根本的なところで自我が満たされず、欲求不満が解消されない苛立ちが破壊衝動となったのかなと思います。サンアは組織と自我の板挟みになり苦しみ、怪物になってしまいました。

 

と、同時に、サンアからは、女性としての疎外感と、ルールに従いきれない疎外感を抱えた、時代の変換期における普遍的な女性像を感じます。もちろん、こんなに悪いことばっかりしているのはどうかしてるし、この世代の人のほとんどはこんなひどいことはしていないんだけれども、「自分を尊重することは悪いことだ」という世界観のなかで、自分を尊重し続けると「悪人」扱いされてしまうのは自然な流れです。例えば、子供ではなく自分のためだけに生きる母親がいたとしたら、世間的に「悪い母親だ」と言われるでしょう。三姉妹の母親にいい印象を持つ人はほとんどいないはずです。三姉妹の母はサンアの貧乏バージョンで、サンアを補完するキャラクターでもあります。

 

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あと、サンアやコ室長は「ドイルが金より愛を信じるとか意味不明」みたいなことをよく言っていたけれど笑、それは彼女たちが「愛を信じたいけど裏切られてばかりだから、愛を信じるのをやめた」という感じもするんですよね。サンアはよく「希望を打ち砕きたい」と言っていたし。サンアと室長が同世代なのも意図がありそうです。近い経緯があるというか。全体を重んじる組織のなかで、他者と恋愛や情愛の関係を持ち続けるのは難しく(個人的なものなので)、疎ましさと憧れがあるように思います。室長は女性性をかなり押さえた振り切ったキャラクターですが、彼女はサンアと同じように組織にいながら、組織に従順で全体主義に馴染み過ぎた女性です(全体主義の性格上、男性化している)。室長もまた、サンアを補完する存在でした。ジェサンの傍にいた二人を比べて見るのも面白いです。ジェサンも「ドイルが金より女を選ぶなんてありえん」って感じでしたね。

 

徹底した個人主義

全体主義に立ち向かうためには、どうすればいいのか。情蘭会は国家の全体主義に自らの全体主義で対抗しましたが、三姉妹をはじめとした情蘭会に対抗した面々は徹底した個人主義を貫いていました。全体主義に対して個人主義で対抗するのです。

 

よくよく考えてみると、この三姉妹は最初からベタベタしてるところがなく、お互いの知らないことが多々ありました。知らないうちに、大金を手にしていたり、アル中になっていたり、お金持ちの家でお金をもらって絵を描いていたり。そもそも三姉妹が全員集まっているシーンはほとんどありません。

でも、親しいからといって全てを知らないのも、いつもそばにいないのも、普通にあることです。

 

イネ「いつか会おう、地球上のどこかで」(12話)

 

三姉妹は協力者を見つけ、ジェサンやサンアを潰すために奔走しますが、それぞれが役割を果すものの、集団としての一体感はありませんでした。ファヨンもドイルも個人主義を貫き、時には仲間を騙してでも、自らの計画を遂行しました。ドイルの父も、母も、長く一人で戦っています。

 

連帯は私たちに力を与えます。ですが、それは私たちを縛るもの、危機にさらすものでもあります。集団になることで、一人で成しえないことをすることもできるけれど、そのずっと先には過激な全体主義が待っています。

 

だからこそ、この物語では、あくまで自分で考えて、自分で行動することを重要視し、連帯しながらも、連帯に縛られることなく戦うことが必要だったのでしょう。

 

10話でインジュがインギョンに「もうジェサンを追い詰めるのはやめて海外にみんなで行くのはどう?」的なことを聞いてますが、インギョンは「オンニがそうしたいなら、そうしな。私はこれをやりたいからやる」というように答えていました。ここにも個人主義を感じます。

 

インジュは物語の中で最も弱い存在ですが、それでも自ら考えて数々の行動を起こしました。有能なドイルにも依存しません(ドイルに一言相談した方がいい時すらしない)。逆にドイルは、たぶん人生で初めてお金よりも他者(インジュや母)のために動きますが、根っからの個人主義者なので、インジュに見返りは求めません。

 

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最終回直前まで、ファヨンはドイルと協力関係にあったのかな?と思っていたので、そうではなくてやや肩透かしでしたが、個人主義という観点で考えると、それもそうなるよな、と思い直しました。

 

ドイル「君には君の道が。彼女には彼女の道が」(12話)

 

繰り返しになりますが、困難な状況では、連帯は力になります。特に社会的に弱い立場にある人々は、連帯することで少しずつ世の中を変えてきました。シスターフッドという言葉にも、そんな意味合いがあると思うし、この物語でも、シスターフッドを感じる瞬間は多くありました。

 

しかし、どんな連帯も度が過ぎれば束縛となり、暴力性も強まり得ます。連帯はそもそも、一人ひとりを大事にするためのものなのだから、状況がよくなれば、個人主義に向かっていくのは必要な流れなのだと思います。『シスターズ』は最終的に、シスターフットの先にある個人の生き方を描いていたと思います。

 

インジュはなぜサンアを殺すのか

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最終回で一番驚いたのは、正当防衛とはいえインジュがサンアを殺したことです。さすがに殺すことはないんじゃない?と正直最初は思いました。サンアが刑務所にいるのを想像できなかったのも事実ですが。

 

ただ、サンアが全体主義個人主義の間で苦しんだ存在で、インジュもその地続きにいた、ということを考えると、あのシーンは象徴的に「前の世代の生き方を葬り、新しい生き方を選択する」ことを描いている、とも受け取れます。

 

サンアはシステムの中で自分を殺すことが絶対にできないので、組織に染まりきることができませんでした。でも他の生き方も知らない。インジュは格闘のなかで、人の犠牲にならず依存もせずに生きる方向に舵をきり、サンアを殺すことでその方向性が確実になります。


インジュ、サンア、ファヨンは、組織の中で生きづらさを感じ、もがいた女性です。だから3人とも同じ靴を履いていたのでしょう。サンアが人に心を与えることができたなら、ファヨンともインジュとも友人になれたのに。
お金を中心に添えながら、靴が象徴するように、生き方そのものを描く物語になりました。 

 

居場所と自立

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情蘭会に迎合していく人々は、後ろ盾が何もなく、経済的にも精神的にも人生がままならない人ばかりでした。寄る辺がない個は、全体主義に利用されてしがちです。中立的に見えたインギョンの上司でさえ、実は情蘭会の一員でした。

 

個人が何の後ろ盾もないままに、この有象無象の世界でやりたいことを実現するのは、困難が必ずあるでしょう。しかし、後ろ盾は人を縛るものでもある。物語では、個人主義を貫いたまま、やりたいことをする方法を示唆しています。

それは、自分だけの居場所を得ることです。誰にも奪われない自分だけ寄る辺があれば、交換条件で人を操るような後ろ盾がなくてもなんとかなるからです。

 

大おば「私はね、全てを失ってもこんな家さえあれば、初めからやり直せる」(4、12話)

 

三姉妹はそれぞれ、自分だけの居場所を得ています。

 

インジュは、文字通りの居場所であるアパートを大おばさんから譲りうけます(大おばは、アパート、家&会社、手術代と、三姉妹に何かしらを遺していた)。

インジュはお金に苦労していて、堂々と生きることができてこなかったので、物理的な居場所が大事になるのは理解できます。

 

インジュ「魂はどこで生きるのだろう。私は私の魂の生きる場所が欲しかった。この家に受け入れられたと感じた瞬間、全てが大丈夫だと思えた。多分これから私は少し変わるだろう」(12話)

 

何があっても自分はここにいてもいい、という安心感を得たインジュは、やっとこれからの人生について考えることができるでしょう。アパートは大おばから譲られたものですが、自ら「欲しい」と大おばに伝えており、お金も払うつもりでいたので、完全な受け身の棚ぼたではないかな、と思います。

 

インギョンはジョンホというパートナーと共に生きることを自分の新たな居場所にします。インギョンは自己評価が高く、お金持ちのマインドを持っているので、物理的な居場所についての不安感はなく、次の段階に進んでいます。「人」を自分の居場所にするには、依存することのない独立心が求められますが、インギョンは自立心の強い人なので、そこは既に乗り越えているように思います。(ジョンホ疑ってごめんよ。君は本当にいい人だった笑)

 

イネはまだ旅を続けていますが、イネにはいつでも「絵を描く」という帰る場所があります。行為が居場所であるイネは、インギョンの次のレベルにいる感じ。イネはヒョリンと助け合いますが、一番大事にしているのは絵です。彼女は拉致監禁された時でさえ、「絵を描く」と言っていました。絵さえ描くことができれば、なんとか生きてけるという確信がある。

 

物語は、三姉妹の自立の入り口を描いたところで終わりますが、それは自分だけの居場所がなければ成しえませんでした。人は、自分だけの居場所がないと自立できないのかもしれません。だからこそ、自分の居場所を人に預けずに、自ら見つけ大切にする必要があるのでしょう。

 

自分のために生きる

物語の最後で、感動的だったのは、イネの手紙です。イネは三姉妹の中では一番個人主義的で、一番エゴを持ったキャラクターでした。だからこそ、高いレベルで自分だけの居場所を見るけることができたのでしょう。これは、彼女が十代であったことも大きいと思います。前の世代の生き方にまだ縛られていないし、思春期の最終段階で姉たちの愛情に溺れないよう自分を確立するために誰よりも奮闘していた。アーティストとしても自己の確立は必須です。

 

イネ「貧しい家庭で、多くのものをもらったのに、いつも怖かった。私は何も返せず姉さんたちの愛に見合わない妹になりそうで。姉さんたちのことをいろいろ思い出す。あの時の気分やうれしかったこと、嫌だったこと。私が悪かったこと。忘れられない表情の数々。その表情を描きたい。それを積み重ねて私が別の顔になれたと思った時に、その時に帰る」(12話)

 

イネの居場所は、絵を描くことだけではなく、姉たちと過ごした時間にもありました。しかし、与えられてばかりでは、いつまでも無条件に保護される存在以上にはなれません。彼女は「自分」というものを獲得しなければ、姉たちといい関係を続けられないことにも気づいていました。別の顔になれたら、「自分」を確立できたら、姉たちとも後ろめたさなしに付き合うことができるでしょう。

 

イネ「(インジュに)家を買って。私たちの家じゃなく、姉さんだけの家を。いつか自分のためだけに食べて寝て、働けますように。いつも私はそう願ってた」(12話)

 

自分のために生きることが、なにより大事なのです。また、母親の苦労を見てきた子供の多くが母親に向けて願っていることかもしれませんね。

 

物語の初め、インジュやインギョンは、自分勝手な母に泣くほど怒っていましたが、最後は「既読スルー」をすることができました。「自分のために生きる」という母に対して、応援まではしないまでも、「好きにしたらいい」というスタンスに変化しています。これは「そばにいない」「新たな実被害がない」ということも大きいかとは思いますが、娘たちが成長した今、母が自分のために生きるのは悪いことばかりではないということでもあります。娘たちにとっても、もう成長したのだから、親がいる場所を自分のいる場所にする必要もありません。

 

サンアはウォン家の核心である青い蘭の大木を溶かし、死んでしまいました。「家」と半同化していたサンアは自らを憎むように「家」を憎んでいたことでしょう。「家」を憎みながら、最後まで「家」にしか居場所がなかったのは本当に皮肉です。彼女が自分のためだけの居場所を見つけられていたら、自分を罰せずに大切にしていたら、どんなによかったか。ヒョリンを連れ戻さなかったのが、せめてもの救い。娘の幸せはギリギリのところで願っていたのかな。

 

再び現れた大金

もうひとつ、最終回で気になったのは、700億ウォンが巡り巡って三姉妹、ヒョリン、ドイルで分配したということです。

特にインジュにとってはインパクトが最も大きく、このお金のおかげで本当の意味で人生の再スタートをきることができそうです。

 

しかし、あの700億は裏金で、人を殺し、銀行を破綻させ、様々な悪行によってできたお金。20億が手元に入ったことで様々な経験をし、お金や生き方ついての考え方が変わった今、インジュはどのようにあの300億を使うのでしょうか。それとも、そもそも受け取らないのでしょうか。他のキャラクターはどうでしょう。

 

彼女たちが幸せになれるのか、今後どうなるのかはわかりません。でも希望はある。なぜならそれが「自分次第」ということを彼女たちは知っているからです。

 

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正直、最終回はあと10分あったらよかったのになと思います! 

 

前半はかなりお金の呪縛を中心に描いていたので、テレビドラマ(tvN)でやるのは特に難しいテーマだなと思っていました。テレビはコマーシャルがあって成立してるので、資本社会や消費社会を批判するのにはセーブがかかりそうな気がしたからです。ですが、個人の生き方に焦点をシフトすることで、その問題も回避していたように思います(描き方によってはもっと宗教的な話にも自己責任的な話にもなりえましたが、それも回避していました)。

 

情蘭会は完全に消えていないし、他にも情蘭会みたいな組織はきっと数多くあるので、「潰しきる」ことを目的にするよりも、個人の問題にしたほうが、現実的でもあったのかもしれません。

 

個人主義の話になったゆえ、「みんなでハッピー!大集合!」みたいなカタルシスがないのは寂しいですが、そういう話なので受け止めます笑。

 

でもインジュとドイルは、もうちょっとどうにかならんかったかなー!

ドイルが出発した時にはインジュはまだアパートの譲渡を知らず、かと言ってドイルを居場所にするほどの自立はまだなかったので、仕方ないのはわかるけどさ!空港で別れる時にドイルは「また会おう!」ってめちゃ笑顔なのに(あのドイルが笑顔)、インジュはキョトンとしてるんですよね。あれは、まだまだ時間がまだかかるよな。いつか、ギリシャでもどこでもいいから、再会してほしいです。ドイル、というかウィ・ハジュンさんが有能すぎて(イカゲームでも超有能だったね)、とてもかっこよかったです!

 

お芝居は三姉妹はもちろん皆素晴らしかったけど、サンアを演じたオム・ジウォンさんがまたすごかったですね。裏の主人公というか。この方の絶対的な存在感が、物語の世界観を深めていました。お芝居も声もすごく役にマッチしていましたよね。

 

ヒョリンが思った以上に存在感があったことも、書いておきたい。『若草物語』でのベスのような立ち位置になっていました。

 

ウォン家のやっていることって、日本で起きていることも結構想起させましたが、もちろん韓国でもこういったことを思い出させる現実の事件はあるだろうし、ほかの国でもありますよね。集団が独自のルールをもとに独自の全体主義に走って国家を脅かす、みたいなことは。青い蘭みたいなわかりやすさはなくとも。政界に入り込むとか、メディアをコントロールするとか、かなり既視感がありました。

 

今はみなが違うものを信じていて、そのために(作中でも言われていたように)「真実さえ違う」ってことが起きてしまっている。生きづらい時代ではあるけれども、それは個人の考えが多様になってきていることは間違いなくて。そういうなかで、まずは自分を大事にする、っていうのは、全体主義に走らないためのひとつの方法だよなと思いました。全体主義の集団は、全体の目標や信念が大きいほど、個を大切にできなくなるので。戦争とかもね、本当に嫌ですね。

 

また、全体主義は全体のためでなく、実は一部の人の利益に付与することの方が圧倒的に多く、その利益を得る一部の人はエゴの塊であるわけで。単に自分のために、ということではなく、法をまもり、人を傷つけず、お金にも振り回されずに、自立しつつ、自分らしく生きていきたいものですね。ついでに恐怖や欲望はほどほどに。これを実際にやるのはとても難しいですけれども…。

 

ともあれ、『シスターズ』のお陰で興奮の6週間を過ごすことができました。仕掛けもテーマもお芝居も美術も堪能しました!

ありがとう!『シスターズ』!!