お出かけ手帳

誤字脱字病。書いては直す人生。

2021年2月 印象に残った作品

☆ネタバレしてるところもあります☆

 

こんにちは!

 

あっという間に2月も終わってしまい、気づけばもう3月半ば…。

 

私は引き続き、健康についての研究を重ねております^^;

食事改善のおかげで少し健康度が底上げされて、時折の快眠を得たものの、未だ睡眠は不安定…。安定快眠を目指して、この頃はYouTubeなかやまきんに君のチャンネルを見ながら筋トレをしたり、一般の整体師さんのチャンネルを参考にセルフ内臓整体を試みています(効いてる気がする)。代謝をとにかく上げたい私です。毛は生えずとも、不眠症&慢性疲労は今年中に克服したい。でも健康について調べるのに疲れてきたので、ちょっと休もうかな笑。

 

では笑。

 

目次

 

 

韓国ドラマ『ライブ』

この記事に混ぜて書くつもりが、結構な長さになってしまったので、先に独立記事としてあげました。とてもよい作品でした!恥ずかしながら、『月の恋人(麗)』の監督さんの作品と知らずに最後まで見ました笑。あの監督さま(とあの脚本家さま)なら、結構厳しいところまで描写されているのも納得。

 

mikanmikan00.hatenablog.com

 

映画『KCIA 南山の部長たち』

 

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Twitterに書いた感想に尽きる感はあるんですが、とにかくビョン様の演技が凄すぎました。

 

この作品は実際の大統領暗殺事件をもとにしていて、暗殺が起こること自体は事前に分かっています。だから、結果よりも、経緯が大事で、「どうして主人公がそんなことをすることになったのか」っていうことに焦点を当てたお話です。

 

主人公であるビョン様は中央情報部(KCIA)のトップ(部長)で、すんごい真面目で静かな男。大統領のことも「何があっても閣下は私がお守りします!」みたいな感じで、忠誠心も高い(忠誠を誓わないと生きていけない立場&時代ではあるけれども…)。もう、異常なほどに「わきまえて」いる。ガタイいいビョン様が小さく見えるほどに。大統領の前で、男たちは皆わきまえるしかなく、女性は話に介入することができません。

というのは、大統領が本当にめちゃくちゃな感じの人なんですよね。『ミセン』のオ課長ことイ・ソンミンさんが演じられてます。この人も妙に静かでね。独特な風貌&話し方の人だったんですね(勉強不足ですみません)。国民に対する言動は悪すぎて怖すぎて…。独裁。

 

で、実は、この二人は政権を作る際に一緒にクーデターを起こした「仲間」でなんですよね。それもあって、料亭みたいなところでプライベートでも会食して、昔の思い出話したり、国の大事なことを話したり、とても特別な雰囲気の2人です(会食と政治は日本でもタイムリーなネタですね)。でも、元あった彼らの志は既に全然違うところに行ってしまっている。もはや、大統領を野放しにしていたら、国民が犠牲者になり続けてしまうのです。ビョン様の暗殺の大義が静かに力強く見えてきます。

 

でも、話はそう単純でもなく。時を同じくして、大統領がビョン様じゃなくて警護室長をお気に入りにし始めるんですよね。こいつがまたずるっこい奴なんだ(憎らしい演技がうますぎた)。大統領はめちゃくちゃ。警護室長も大嫌い。でも、この二人がくっつくのはなんか嫌。主人公はほぼ真顔なんだけど、真顔のなかにどこか嫉妬が漂うんです。大河ドラマ麒麟が来る』の最終回を見た後だったので、ビョン様と大統領の関係を見ていると、信長と光秀の関係を少し思い出しました。

 

そんな主人公の複雑な心をイ・ビョンホンさんがとても高度に表現されていて、また暗殺シーンも素晴らしく(正義に燃えるというよりは、暗殺の意志は確かなんだけれども一方で気が動転しまくってるのがリアル。かなりテンパっていて全然かっこよくない)、釘付けになって見ました。とても面白かったです!

 

あと、クァク・ドウンさんがビョン様の前に中央情報局の部長をやり、今はアメリカに亡命して大統領の腐敗政治を訴えてる役をやっていて、彼もまた強烈でした。この人が結構のん気な感じなんですよね。おい、ここで酒飲んで遊んでる場合じゃないだろ、と思った瞬間がありました笑。良くも悪くもわきまえるのはやめた人です。

 

…と色々書いてみましたが、基本はビョン様に釘付け過ぎて、他の俳優さんを見るのがややおろそかになってしまったのは否めないので(俳優さんの問題ではなく私の力不足です)、また見たい。改めて、演技合戦をじっくりと見たいです。

  

映画『花束みたいな恋をした』

 

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サブカル好きな男女の恋愛モノということで、サブカル好きの私は無視できず見てしまいました笑。

 

主人公カップルを肯定しつつ、と同時にどこか冷ややかに描いてて、見た人の人生観によって感想に幅がある作品だと思います。よくも悪くも曖昧で複数の解釈ができる(こういう戦略ですよね)。本当に普通に未熟な若者のお話で、多くの人は若者時代は未熟じゃないですか。だから、どんな感想を言っても、ほとんどはそれを言う本人に自己反省というしっぺ返しが待っている構造になっていて、感想がとても言いにくいです笑。自己反省しなくても、自分と反対意見を持つ人を否定するみたいになっちゃうかもしれないし。全ての感想が、その人の人生を反映しているようで、面白くもあり、怖くもあります。でも感想を言いたくなるし、みんなの感想が聞きたくなる(これだけでも大成功じゃないかこの映画)。

 

更に言うと、この映画が面白いのは個人の中でも、感想に揺れがあることではないかと思います。私も結構感想が揺れたというか、見た後と今では、少し違う思いがあります。

 

↓恥ずかしながら見た直後の感想。

 

 

 

 

私はこの二人の恋がそもそもよく分からなかったのですよ。互いの趣味が「似てる」だけで、そんなに好きになれるのか。「よくあることだ」と頭で理解しつつも、一方で「これは恋なの?」と正直思いました。人との付き合いのなかで、共感は大事で、共感が元になって恋をすることはあるでしょう。でも共感だけでも恋は難しいのではないかと思ったんですよね。共感ができてかつ、自分にないものを持っている人に惹かれるほうが自然なのではないかと思ったんです。告白シーンでお互いを見ていないのも、照れ隠し以上に、単にお互いをちゃんと見てない様に感じてしまって。性描写がなければ、この二人は友達なのか恋人なのか分からないかも、と感じるほどでした。

 

でもまぁね、人それぞれですからね。本人たちが恋だと言えば恋なんだよね、と今は思うし、好意を持つ人とトコトン付き合って、「一生共に生きるか、別れるか」を考えるところまで行ったのはすごいことだよな、とも思います。

 

もっと言うと、この二人は友達関係だったほうが、たぶん長く付き合えただろうとはやっぱり今でも思うけれど、よく考えたら、友人関係なら生涯安泰ということではないわけで。彼らは仕事の状況が違い過ぎて、関係に亀裂が入ってしまったけれど(別々の人生を生きていることに気づいてしまったというか)、でも友達でも長く付き合うと亀裂は自然に生じたりするんですよね。仕事もそうだし、結婚、子育て、家族の介護や看病、自身の闘病…属性や状況によって共感しあえなくなり、亀裂まではいかなくても、友人と疎遠になることは全然ありえます。あとは、今の社会や政治に対してどう思うか、とか。思想的なこととかも。例えば、私はある尊敬する大事な友人が自己啓発セミナーにハマって勧誘ばかりしてくるので、疎遠になってしまいました。最近は感染症に対してどう思うか、とかも結構影響あるのかな。そもそも価値観が違っていた別々の人間同士の付き合いは、置かれた状況に引き裂かれるのではなく、置かれた状況が「価値観が違う」ということをハッキリと明らかにしてしまう故に、付き合いが続けられなくなってしまう。

 

でも、たいていの場合、友人同士は別れ話をしません。なんとなく疎遠になるだけです。別れをはっきり言うことはないので完全に終わりという訳ではないかもしれませんが(付き合いが復活することもあるし)、そのかわりに共に時を過ごした相手に感謝を伝えることもできません。

 

一方で、この主人公たちは、共に時間を過ごした相手に対して、しっかり別れと感謝を伝えてるんですよね。で、これができているからこそ、彼らの恋は「花束みたいな恋」と言えるんですよね。

 

そもそも、物語は冒頭で「私たちには一人ひとりイヤホンが必要なんだ」「イヤホンを左右で分け合うことはできないんだ」と宣言していました。つまりそれは「私たちは一人ひとり全く別の人間であり、全く別の人生なんだ」という宣言なわけで。でも最初見た時はこの表現があんまりピンと来なかったんです。だって一人ひとりがイヤホン持って聞いたとしても受け止め方は人それぞれという別の地獄があるから。

 

ただ、同じ坂元裕二さん脚本のそれでも、生きてゆくを見直すと、イヤホンの例えが少し理解できたというか。『それでも~』では人々の中に「同じこと」と「違うこと」が誰にでもあるってことを誠実に描いています。少年による殺人の加害者家族と被害者家族は全く正反対の立場にあるけれども、その悲しみ苦しみにはどこか通じるものがある。同じ電車に乗っている。でも、一方で断絶も確実にある。結局は「私たちは一人ひとり全く別の人間」でしかない、ということなんですね。あぁ、これを『花束~』では全く別の形で描いたのだな、と思いました。だから、イヤホンは1人1コ持っていないといけない。自分の人生は自分1人で生きていくしかないのだから。また、同じ人生がない以上、受け止め方が違うのは自明のことなのでしょう。

『それでも~』は全く正反対の立場にある男女が出会い、共鳴する。『花束~』は同じ立場の男女(だと本人たちは思っている)が出会って共鳴する。どちらもその先にあるのは、別れであり、お互いを想った事実だけが残ります。そして、二人には別れてこそ生まれる、絆のようなものがある。これは、坂元さんのテーマなのかな。「花束みたいな恋」を経て彼らが手に入れたものこそ、大事なもののようにも思えます。一人で生きていくなかで支えになるもの、というか。

 

あと、菅田将暉さん演じる麦が仕事に追い詰められて、好きなことが全然できなくなる描写があるのですが、私も似たようなことがあるので身につまされました。

 

麦くんと全く同じとは言いませんが、私も仕事のストレスで好きなドラマも映画も全然見れなくなるし、本も読めませんでした。でも、どうでもいいYouTube(ごめんね)だけは見られました。精神論的なビジネス本も読めました(積極的には読みませんでしたが)。仕事を辞めたら元気になると思ってたけど、もはや体にガタがきていたので、辞めただけでは回復できませんでしたし、仕事を辞めて2年近く過ぎて経ってやっと調子が戻りつつあります。在職中も含めたら、4年くらいまともに好きなことができていないんです。自分に向いていなくとも、キツい環境の中でも、とにかくやるしかないっていうのはとても辛いことで、その後の人生にも影を落とし得ることだと、しみじみ感じています。こういう状況だと、衣食住もめちゃくちゃになるので、一緒に住んでいた有村架純さん演じる絹はかなり大変だったのではないかと想像します(だからこそ、二人の原点である麦との趣味の時間までなくなるのは悲しかっただろうな)。

 

ちなみに、絹のように、趣味を楽しむ余裕のある仕事もしていたこともあるので、その時の私だったら麦のように働く人のことは根本的にはよく分かっていなかっただろうな、と思います。そして、その時は絹のように「やっぱり好きなことを仕事にしたい」「嫌なことはやりたくない」と思っていました。だから、個人的に、麦も絹も仕事観の描写はリアルだな、と感じました。

 

麦がそもそもサブカル好きではないのでは?とか意志が弱いのでは?といった感想を結構見かけたのですが(序盤で麦と絹はお笑いライブを忘れたりしてるし、仕事に絡まない場面では、そう言われても仕方ないかなとも思ったけど)、サブカル好きな人がサブカルに触れなくなるのは、時に意志の問題ではなく、忙しさや、ストレスからくるメンタル、フィジカルの不調によるケースもある、という認識がもう少し広がって欲しいなと思います。元気がなければ、好きなことはできなくなるものです。また、それはサブカル好きに限ったことではありません。どんな人も、自分の余暇が全く楽しめないのはかなりの危険信号ですので、気をつけたいものです。

 

ただ、劇中では麦は絹と別れただけで、調子を戻していたんですよね。仕事は不和のきっかけに過ぎないと感じる一方で、仕事のストレスの大きさも体験していた私は、(じゃあ、あの深刻な仕事ストレスの描写はなんだったの?)と驚愕しつつも、まぁ元気になってよかったねって思いました笑。 私と麦くんは違う笑。仕事以上に彼女(というか「彼女と一緒にいたいなら嫌な仕事をせねば」という強迫観念)が圧だったということか…。まぁ、仕事は山場を越えて慣れたのかな笑。若いし体力もあるからかな。それもまた人生…。ストレスで視野が狭くなって、一時的にわかりやすい価値観に取りつかれただけかもしれないしね。私もそういうとこあったよ。ちゃんと働かなきゃとか、結婚しなきゃとか、思いつめるのはつらいよ。結局何も手に入れてないけど、無理に頑張ってた頃より、今の方が私は幸せだよ。少なくとも、いつでもサブカルの世界には戻っていいからね(今カノにイヤホンのくだり力説してる時点で、彼はまだ現役のサブカル男だとは思う)。

 

あと、絹と麦の、サブカル好き特有のやや選民意識の強い人物像は、なるほどなと思います。ああいうの本当嫌いだけど、私も若かりし頃は絶対してないとは言いきれないところはある(恥かしいね)。本当によくないので止めましょう(自戒)。ファンというのは、ファン以外を排斥する面があり、また、ファン同士でも競ってしまうきらいがあります。絹と麦は趣味がほぼ同じと言うところが関係の肝なので、競う必要がなかったのかな(ただ、そのせいで、趣味の時間に差が開くと同時に不和が起きたけど)。

 

こういったことは、サブカルだけでなく、王道カルチャーでも起きていることだとは思いますが、昨今の映画秘宝の問題を鑑みたりしても、一部の映画好き、サブカル好きは愚かな選民意識に陥ることがあり、性別、年齢やファン歴、知識量(本人の体感にすぎない場合でも)で相手を貶めてしまうことは、ままあります。麦と絹のささやかな「上から目線」は、この作品でのよい問題提議のひとつになっていました。競わず、貶めず、一人ひとりの心を大切に、そして時に連帯しましょう。

 

後半に出てくる若いカップルは、主人公カップルを彷彿とさせつつも、全く奢ったところがなく、まっすぐに互いを見つめていたので、サブカル好きの理想的なあり方にも見えました。まぁ彼らも実際はどうかわからないですけれどね。人間だもの。

 

映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語

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長くなってしまいましたが、もうひとつ(やっぱり『花束~』は超名作か?と問われるとわからないんだけれども、同時代に生きる私たちに語ることを多く与えてくれる面白い作品)。今更だけども『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語にとても感動したことも書いておきたいです。これは正真正銘の超名作。現代を生きる女性に勇気をくれる物語でした。監督のグレタ・ガーウィグの才能と優しさにしびれました。今回の記事で、一番文章の分量が少ないけど笑、一番推したいほどに良かったです。メグ、ベス、エイミー(あぁエイミー!!)姉妹の母、伯母(名前がないのが悲しい)、そしてジョー。みんなを思い出すだけで胸がいっぱいになります。

 

また、若草物語と言えば、ジョーが髪を売るシーンが有名で、脱毛症の患者のひとりとしても胸に迫るものがありました(さらりと描かれていますが)。ジョーは身なりを気にしない子だけど、そんなジョーでも髪がなくなったら泣くんだよ。当時、女性の髪は今以上に大事だったでしょうけれど(メグは特に大事にしていましたね)、ジョーはそういった女性としての髪の意味以上に、自分の一部がなくなる「喪失感」に涙したのではないかと思いました。私も「髪は女の命」とか今まで一回も思ったことのない人生だったけど(もちろん今も全く思っていない)、それでも髪がなくなった時は喪失感に泣いたものです。

 

ではでは、今回はこのへんで。

季節の変わり目、皆さまご自愛ください。